Fuzzy Masayan -17ページ目

Fuzzy Masayan

ある写真屋のぼやき

       私も若いころは決して両親とと仲が良かったわけではありません。父親は生粋の職人気質で、頑固一徹な人でしたし、母親は優しい人でしたが、異常なほど神経質できれいずき、しつけの厳しいひとでした。親父は外では人気者で面白いオヤジさんだったと聞いてますが、家では恐いオヤジでした。お袋は厳しい家に生まれたらしく、躾が厳しくて日常生活はおよそ針の上のむしろ的な感じできつかった記憶があります。でも優しさも人一倍で、、特に子守唄が大好きでした。父は職人でもありましたが、関東大震災、従軍した太平洋戦争を経験している人なので「命あればこそ」の根底にある考え方で、人生を歩みました。私が初めて東京へ出てゆくときには、「お前は田舎モンだから、都会では気を付けて歩け!」と注意され、子ども扱いされていると思い腹が立ちました。高層ビルの屋上からモノが落ちてきて、自分の頭に当たったらそれは自己責任だといいます。マンホールのふたが外れていて、穴に落ちても自己責任だと言ってました。戦場で鉄砲玉にに当たってしまったら、責任云々の前に既に自分の命はなくなっているのだ!と。 この考え方で手厳しく教育されましたが、 若い私は父は敵だと思っていました。でも、現実社会では、ビルからの落下物が、僅か10センチずれていれば頭に当たらなかったということはあり得ます。        一方母は、明治の親に育ったので、私の青春時代は悲惨でした。女の子からの電話はすべて即座に切られましたし、手紙が来ると差出人が女性の名前だと、手渡されたときは開封されてました。    従って、ほぼ毎日がけんかでした。でも、親は親なので、意外に自分は冷静に距離を置いて見てました。血を引いているのは間違いない関係なので。                      そんな両親でも、年齢とともに親の偉さがが分かって来て,感謝しています。中島みゆきさんの「思い出してごらん五歳のころを」という歌に、「風を追いかけてたあの頃を」というフレーズがあります。あるセミナーででよく聞かされたのですが、子供の純粋な目には風が見えるんですね!この頃は、友達や親兄弟、近所のおじさんおばさん達は、みんな仲良しで、他人という認識はなかったように思います。風と鬼ごっこしている無邪気な少年のイメージと、校庭の真ん中でズボンのポケットにに両手突っ込んで寂しそうにしている少年が、なぜか目に浮かんできます。でも寂しくてもつらいことがあっても、帰るべき家がある、家族が存在するということの幸せは何よりも恵まれていることなのですね。        そんなことを考えながら、お客さんの家族写真を撮ってます。個人のポートレート撮影が難しいのにファミリー写真はもっと難しいと感じます。今のそのご家族を記録するのですが、過去の変遷を経てきたその歴史を踏まえて、更にこれから先の未来に幸多かれと念じながらシャッターを切る努力をしております。罵りあったり、喜び合ったりしながら家族はその歴史を刻んで行きます。第三者のカメラマンがその家族とどうかかわるのか?今の家族は映像としては写りますが、記録するだけならロボットでも撮れます。先々にどんなことがあろうとも、家族は家族!喧嘩していても行きつくところに家族ありです。思い出してごらん五歳のころを!目をつぶって風を追いかけてたその頃を思い出し、考え直します、その頃の親兄弟を。いい世の中になることを願って、家族写真を子孫へつないで行きたい!先祖がいるから自分が居る!つづく