小泉義之著『病いの哲学』読了。

 

病み衰えて末期の状態にある人は死ぬほかない―。死の哲学はそう考える。しかし死にゆく人にもその人固有の生命がある。死の哲学はそれを見ようとせず、生と死の二者択一を言い立てる。ソクラテスもハイデッガーもレヴィナスも、この哲学の系譜にある。そのような二者択一に抗すること。死へ向かう病人の生を肯定し擁護すること。本書はプラトン、パスカル、デリダ、フーコーといった、肉体的な生存の次元を肯定し擁護する哲学の系譜を取り出し、死の哲学から病いの哲学への転換を企てる、比類なき書である。

目次

1 プラトンと尊厳死―プラトン『パイドン』
2 ハイデッガーと末期状態―ハイデッガー『存在と時間』
3 レヴィナスと臓器移植―レヴィナス『存在の彼方へ』
4 病人の(ための)祈り―パスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシー
5 病人の役割―パーソンズ
6 病人の科学―フーコー

 

目次の章建てをご覧になればわかるように、本書の大部分は尊厳死/安楽死について多くの紙幅が割かれている。

それだけ著者にとっても、また社会にとっても重要な問題ではあろうが、著者のこれを論じるスタイルには大きな違和感を抱かざるを得ない。

それはそもそも著者がこの問題を論じる上で特定の立場(尊厳死/安楽死反対)に立つことを前提としてしまっていることと、他の哲学書からの引用、特にレヴィナスからの引用については、原著の文脈とはおおよそかけ離れた、著者(小泉)の恣意的な文脈で引用しているのでは?という疑念が禁じ得ないからである。

たしかにテクストや概念は使うためにある、とドゥルーズも言ってはいた。

が、著者のこのような引用の仕方はあまりに恣意的で、レヴィナスが本来ホロコーストについて論じていたことを無化してしまうようなやり方ではないのだろうか?

 

違和感を抱くもう一点は、僕自身が病者や苦しむ者自身の主体的な判断による安楽死(尊嚴死ではない)には賛成である、ということだろう。

これはドゥルーズもD.ヒュームの『自殺について』から引きながら次のように書いていた。

⋯自殺は、≪神≫へのわたしたちの義務に対する侵犯ではなく、社会へのわたしたちの義務に対する侵犯でもない。自殺は、「家を建てる能力と同様に不敬虔ではなく」、例外的ないくつかの事情において利用すべき人間的能力である。例外は、≪自然≫の一目的へと生成する。

 

 自殺する者は、自然に背くわけではなく、あるいはこう言ってよければ、おのれの創造者に背くわけではない。彼は、苦しみから脱するために、自然が彼に残しておいてくれる唯一の道をとることによって、この自然の衝動に従うのであり、⋯⋯死ぬことによって、自然の命令のひとつを果たすのである。

 

 

 

ドゥルーズは実際今からちょうど30年前の11月4日に、自宅アパルトマンの窓から飛び降りた。

30代で肺結核により片肺を切除し、ずっと呼吸器疾患で苦しみ、人工呼吸器を一時も手放せない晩年であった。

最後にそのマスクを取り、自らの足で窓際まで歩いて、「死に付着した自然な恐怖を勇気によって克服し、人生という残酷な舞台から身を引」(D.ヒューム『自殺について』)いたのだ。

 

 

そのようなドゥルーズの最期は、決して「死に淫する哲学」に基づくものなどではないし、世に安楽死を選ぶものの多くは、そうなのではないだろうか?

 

一方で、ホロコーストやT4作戦(障害者安楽死作戦)のような、主体(「わたし」)の外部から強制される「安楽死/尊厳死」という現象もある。

現在の日本においても、相模原事件や、行政/立法府において、高齢者や障害者を切り捨てるかのような政策の立案や審議が現に行われている。

このような現実に対しては、著者の指摘は極めて有効に働くだろう。

著者の言う「死に淫する哲学」の系譜は、まさしくこのような生政治(フーコー/アガンベン)において基礎づけられているのではないだろうか。

その限りで、著者の「尊厳死」反対の立場には首肯できる。