G.シムノンの『13の秘密』を読んだ。

 

 

独立した13の章から成る短編推理小説。

ホテル住まいの謎の安楽椅子探偵ジョゼフ・ルボルニュが、

新聞などに載った13の事件を鮮やかに解決していく。

13番目の物語ではルボルニュの衝撃の正体も明らかになる。

 

学生時代、履修していたフランス語の担当教師が、

シムノンの書くフランス語はしっかりしていて読むに値するというようなことを言っていたが、

翻訳で呼んでいても彼の文章、物語の筋、語り口はしっかりしていて非常に読みやすい。

彼の有名なメグレものはどちらかと言うと心理描写を主体としたもので

本格推理という感じではないのだが、

1932年発表のこちらの短編は推理が主眼に置かれていて、

その方面の人でも楽しめるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

N.ハイトナー監督の映画『クルーシブル』を観た。

 

 

 

 

 

W.ライダーの悪女役としての魅力が存分に発揮されている。

 

原作はA.ミラーの戯曲『るつぼ』。

1692年に英統治下のアメリカで起こったセイラム魔女裁判をモチーフとしており、

この戯曲が発表された当時、

米国は「マッカーシズム」と呼ばれた赤狩り(共産主義者狩り)の最中で、

C.チャップリンを筆頭に多くの文化人も「非米活動」(=共産主義的活動)をしたとして

業界から追放されたり活動自粛を余儀なくされていた。

そのためこの戯曲はマッカーシズムのアレゴリーと捉えられ、

また、モチーフとなったセイラム魔女裁判も、左右問わず政治的文脈で使われることが多い。

 

そもそも、セイラム魔女裁判はなぜ起こったのか。

魔女裁判と言えば中世のヨーロッパが真っ先に思い浮かぶが、

当時既にヨーロッパでは魔女裁判は衰退し始めていた。

にも拘らず、大洋を隔てていたとはいえヨーロッパの外れとも呼べるアメリカで、

なぜこのような事件が起こったのか。

そこにはもちろん色んな背景があったろうが、

一つには事件の舞台となったマサチューセッツ州を含むニューイングランド地方での、

農地の奪い合いがあったであろうことは映像作品の方からも窺える。

主人公のプロクター、コーリー、パットナムとの間には始終土地争いがあり、

また、彼らの土地そのものが先住民たちから奪ったものであったため、

農民たちはその侵襲にも備えなければならなかった

(事実もう一人の主人公アビゲイルの両親は彼女の目の前で先住民に殺されている)。

 

またニューイングランドそのものが農業よりも工業が発達していくことで、

農民の窮乏は当時からすでに萌し始めていた(物乞いする村人も数人刑死している)。

このような背景から、

村全体が一種のストレス状況にあったであろうことは想像に難くない。

宗教がその救いとはなっていなかったことも、

パリス牧師に対する村人たちの反感の強さを見ればわかる。

そのような状況下では富める者のストレスは貧者へと向かい、

また大人のストレスはより弱い子供や女性へと向かい捌け口を求める。

社会的心理的にはそのような背景はあったのではないか。

 

一方で、この作品に出てくる裁判長が憑かれたように法執行に拘りを見せるように、

法と信仰(思想信条)との未分化という問題もある。

これは当時のピューリタン社会のみならず現代に生きる僕らにとっても

馴染みの深い問題だろう。

法手続きに瑕疵がなければ正当とする無関心、無知が、

集団が暴走し「リスキーシフト」と呼ばれる現象を見せ始めたときに、

それを抑制するどころか拍車をかけてしまうことの見本と言えるだろう。

 

いずれにせよセイラムの事件は今日の僕らにとっても他人事ではない。

社会全体が多様性を排除し一つの方向へ向かおうとする時、

そこにはいつでも「セイラム」が生まれるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

キム・ドヨン監督の映画『82年生まれ、キム・ジヨン』を見た。

 

 

原作は一昨年話題になったチョ・ナムジュの同名小説。

持っているが、実はまだ少ししか読めておらず、先に映画の方を見ることになってしまった笑い泣き

 

 

キム・ジヨンは僕と同い年である。

男性と女性、日韓の国籍の違いはあれど、

ジヨンが病むに至る時代背景、社会背景はよく理解できる。

かように日韓の社会やしきたりはよく似ていて、

それは偏に儒教文化圏ということを共にするからであろうと思う。

長幼の序であるとか家父長制、良妻賢母といった伝統的慣習、

社会的に善とされる価値観こそが、

無数のジヨンを生み出し、圧し潰し、

圧搾機のように社会の外へと圧し出してく行く。

そうした風潮のようなものが彼我の共通点としてあるからこそ、

チョ・ナムジュの原作はあれほど話題になったのであろう。

 

ジヨンの陥った精神状態は、専門的には解離症状の一種と呼べるもので、

決して荒唐無稽なものではない。

日本でも、解離症状(多重人格)を扱った作品は、

例えば阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』などがあるが、

そうした作品の多くがいわば面白半分にネタとしてこれを扱ってるのに対し、

本作での扱い方は非常にアクチュアルで社会風刺的、批評的であり、

効果的である。

 

 

解離症状の病状や原因は様々だが、

ひとつにはストレスがその発火点となることは広く知られている。

一時、幼児期の虐待経験が多重人格の原因だとされたこともあるが、

これは今日では必ずしもそう言い切れるものではないと考えられている。

むしろジヨンのような解離症状(あるいはそれを扱う作者の手付き)は

古典落語の『累』に近い。

ただし、『累』の亡霊生霊が度重なる災いをもたらすのに対し、

ジヨンに取り憑いた霊たちは災いというよりは

ジヨンの周囲に警告を齎していると言えよう。

それはジヨンのみならず周囲の人間たちをもより良い生へと誘うかのようだ。

 

韓国ないし朝鮮半島には昔からムーダン(巫堂)と呼ばれるシャーマンがいる。

日本でもかつては、恐山のイタコから琉球列島のユタまで、

このような口寄せをするシャーマンの存在は珍しくはなかったが、

韓国社会では今でも祭礼の際にこのような口寄せを聞くために

ムーダンが呼ばれることがあるようである。

こうした風潮を一概に「非合理的」と決めつけて揶揄することは簡単だが、

より高度な合理性というものを考えた場合、

もっと慎重に見極める必要があるだろうと僕は思う。

時代や社会に抑圧された声が、そこには時折あらわれることがある。

そのような声を聞くこと、少なくとも聞こうとすることこそが、

本当の意味での合理的姿勢なのではなかろうか。

 

文学の起源はそもそも口寄せや祈禱であった、という説もある。

国文学者の折口信夫は日本文学の起源を祝詞を含む呪言に見ている。

とすれば、死者や霊の声を聞くことこそが、文学の本源なのではないか。

僕は霊とか魂といったものを肯定も否定もしない(わからない)が、

現象として憑依のようなものがあることは認めざるを得ない。

とすれば、その何某かのものの警告や忠告を聞くことも、

僕たちの持続可能性のためには必要なのではないだろうか。