アントナン・アルトーの「神の裁きと訣別するため」読了。

 

内容紹介(出版社より)

「器官なき身体」をうたうアルトー最後の、そして究極の叫びである表題作、自身の試練のすべてを賭けて「ゴッホは狂人ではなかった」と論じる三十五年目の新訳による「ヴァン・ゴッホ」。激烈な思考を凝縮した二篇。

 

 皮膚の下の身体は、過熱したひとつの工場である。

 そして、外で、

 病人は輝いて見える、

 炸裂した

 そのすべての毛穴から

 彼は輝き出す。

 例えば正午の

 ヴァン・ゴッホの

 風景のように。

 ただ永久に続く戦争だけがひとつの移行にすぎない平和を明らかにする、

 こぼれ出ようとしている牛乳が、それが沸騰していた鍋を明らかにするように。

 渦を巻き、そして穏やかな、

 ひきつって、そして静まった、

 ヴァン・ゴッホの美しい風景には気をつけろ。

 いまにも過ぎ去ろうとしているのは、高熱の二度のぶり返しのあいだの健康である。

 それは良好な健康の反乱の二度のぶり返しのあいだの発熱なのだ。(『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』より)

 

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる『アンチ・オイディプス』にも一部引用された上の詩のような文章はあまりに有名だろう。

 

 

 

実際、詩とも狂気ともつかない文章が、アルトーの特徴とも言える。

一見するとナンセンスでありながら、独特のロジックによって繋がれているそれらの文章は、ドゥルーズが『意味の論理学』でルイス・キャロルのナンセンスな世界と比較しているように、明らかに異なるものであろう。

 

同時に、われわれは、表面に放出されるキャロルの言葉と身体の深層で刻まれるアルトーの言葉の隔たりを、すなわち、二人の問題の差異を計測する。そのとき、われわれは、ロデーズからの手紙でのアルトーの宣言において、問題の全過程を見ることができる。「私はジャバーウォッキーを翻訳したのではない。私はその断片の翻訳を試したが、嫌になってしまった。私は一度もこの詩人を好きになったことがない。いつでも、装われた幼稚さに見えたのだ……。私は表面の詩を愛してはいないあるいは、表面の言葉を愛してはいない。表面の詩と言葉は、幸福な余暇と知性の成功を呼吸している。知性は肛門に支えられているが、知性が肛門に魂や心を置くことはない。肛門は常に恐怖である。糞を失っておきながら、魂も失って引き裂かれることがないなど、私は認めない。…

 

 

 

僕はここから、「詩」とは何かを自問する。

もちろん、ある内在性によらない、表面的な語の配列から、「詩」を生むこともできるだろう。そしてそれは現在でも一部の「詩人」たちがやっていることではある。

しかし、アルトーの考える詩はそんなものではない。

ゴッホに対する評言からも推察できるように、彼にとって「詩」とは、ある内在的な軋みから生まれる呻きであり、苦悶の叫びなのだ。

それは彼の提唱する『殘酷劇」の発想にも通ずる。

 

 

アルトーにとって、生とは「善」と『悪」の対決であり、純粋にスピノザ的なものであった。

従って彼にとって精神医学や精神分析(ラカン派)とは悪でしかなかった。

しかし、上の引用でも明らかなように、彼はよく「肛門」とか「糞便」という言葉を頻用する。

それは、まさに精神分析や精神医学を内部から解体させようとするものなのだ。

呻きや叫びといった解体工場の騒音こそが、彼には必要だったのだ。

そしてそれは今も、「詩」を書かんとする僕らに求められていることでもあると思う。