G.ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』を読んだ。
スピノザ、ニーチェ、カフカ、ゴダール……。その系譜上にサミュエル・ベケットがつらなるとき、〈消尽したもの〉という新しい哲学概念がかたちづくられる。ベケットのテレビ放送用シナリオ4作品「クワッド」、「……雲のように……」、「幽霊トリオ」、「夜と霧」をもとにドゥルーズ待望のベケット論。
ベケットの4つのシナリオをもとに練り上げられたベケット論だが、
一言で言えば、
選言命題(「あれか、これか」)が最終的に辿り着く虚無についての、
ドゥルーズなりの回答と言えるだろうか。
世の様々な二元論(あるいは多元論)は、
(例えば「保守/革新(リベラル)」のように)常に可能性を孕んでいる。
たとえそうした立場の一方が疲弊(本書で言えば疲労)していたとしても、
そこにはまだいろいろな展開の可能性が潜んでいる。
完全に終わってしまう、ということはありえない。
だがベケットが提示するような「消尽したもの」の次元においては、
最早何ひとつ可能ではなく、
「消尽したもの、それは疲労したものよりずっと遠くにいる」のだ。
あらゆる可能性というものが汲みつくされてしまった時、
ヒトはそこに何を見、どう生きていくのか。
ドゥルーズがベケット作品に見て取ったテーマはまさにそれなのだろう。
あらゆるものが相対的、相互依存的にしか存在し得ない以上、
有の反対は無にならざるを得ないのだ。