ブコウスキーの掌編『静かなやりとり』読了。

 

強烈な露悪。マシンガンのようなB級小説の文体。アンダーグラウンドの一作家だったブコウスキーの小説は、世紀末の日本で、熱い支持者を得た。人も獣も入り乱れ、目もくらむ終結を迎える「狂った生きもの」、酔いどれの私がこともあろうに結婚式の付添人を務める「禅式結婚式」など、前作「町でいちばんの美女」を凌駕する過激な世界が詰め込まれた短編集。

 

ブコウスキーの政治観がよくあらわれた作品と言えるだろう。

マキシーという、ラビ(ユダヤ教の司祭)を目指す若者が

「ブコウスキー」の部屋に来てビールを飲みながら雑談をする。

時代は1968年7月。

この若者は徴兵忌避のためにカレッジに通っているが、

反戦主義者というわけでは別になく、

中東戦争には参加したかったが、

ヴェトナムでは銃を持ちたくないというような、

昨今の情勢を予見するかのような性格の若者である。

「ブコウスキー」はその若者と、

政治や革命や後輩の詩人のことについて雑談するのだ。

中でも「観察する」ことについてブコウスキーは何度か言及している。

これは非常に示唆的だと思う。

作家や詩人の仕事の最も大きな部分を占めるものが

(観察すること)だからである。

例えば大江健三郎も(危機のときにはよく観察すること)を説いていた。

一部の作家、特に(行動する作家)と呼ばれる人たちは、

ともすれば情熱的に行動するが、

そうしたことは作家や詩人としては2流の行為だと言わねばならない。

作家や詩人の仕事の第一は、

認識し解釈することなのだ。