中山元著『アレント入門』読了。
人はなぜ〈悪〉を為すのか!?
全体主義と戦った思想家のエッセンスを
主著を読み解きながら明かす
ユダヤ人として生まれ、生涯を賭してナチス体制に代表される全体主義と対峙した
思想家ハンナ・アレント。
その思考の源泉を、ナショナリズムや公共性の問題から検証し、
『全体主義の起原』『人間の条件』『イエルサレムのアイヒマン』などの
代表作に跡づける。
その思考は、今なお全体主義的な体制を経験している私たち自身の
経験と現在を考えるための重要な手掛かりになるに違いない。
アレントの思想、特にその道徳哲学について、
インタビューや著作、連続講義を読み解くことで明らかにしている。
主に取り上げられる一次文献は次の五つである。
- ガウスによるテレビ・インタビュー「何が残った?母語が残った」
- 『全体主義の起源』
- 『人間の条件』
- 『イェルサレムのアイヒマン』
- 連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」(全4回)
最近話題になった映画『関心領域』のあらすじに引き付けて言えば、
アイヒマンの最大の問題は、
自己の内部にいるもう一人の自己に対して無関心であったこと、
そしてその問題は、アイヒマン一人のものではなく、現代資本主義社会においては、
誰しもに起こり得る問題であることを明らかにしている。
例えば僕らは日頃、仕事とプライベートを分けるようにしていると思う。
それは現実に仕事を進めていく上では欠かせないスキルであり、
家に帰ったら(あるいは制服やスーツを脱いだら)もう仕事のことは考えない、
という手法は、自己の精神衛生上でも必要なことであろう。
しかし、もし仮に、その仕事というのが、
(ナチスのような)巨大な悪に奉仕することであったとしたら、どうだろう?
そのような状況に陥った時、人は誰しもアイヒマンのようになり得る。
所謂「悪の凡庸さ」というのは、このような事態を指すのだ。
『全体主義の起源』が明らかにしたように、
このような事態はナチスばかりでなく、スターリン治下のソ連でも起きていた。
ということは、これはドイツ固有の問題ではないのだ。
実際、第二次大戦下の日本でも起きていたし、
現代でも、ウクライナ東部やパレスティナで起きていることなのだ。
こうした事態に対し、アレントはカントの『判断力批判』を根拠に、
道徳的なものを如何に復権させるかということを考えていたという。
それが晩年の連続講義「道徳哲学についてのいくつかの問題」なのだと著者は書く。
その中でアレントはシェークスピアの戯曲『リチャード三世』から
主人公リチャード三世の次のような独白を引用しているという。
何だと。おれ自身が恐ろしいとでもいうのか。側には誰もおらぬ
リチャードはリチャードが好きだ。つまり、おれはおれだ。
ここに人殺しでもいるというのか。いや、いない。そうだ、おれが人殺しだ。
じゃ逃げろ。なんと、おれ自身から逃げるとでもいうのか。いったいどんな理由からか。
おれが復讐するといけないからだ。何だと、おれがおれに復讐するというのか。
ところが悲しいかな。おれはむしろ自分がしでかした忌まわしい行為のためにおれ自身が嫌いなのだ。
おれは悪党だ。しかし自分では悪党ではないような顔をしている。
馬鹿、自分のことはよくいうものだ。馬鹿、おべんちゃらをいうな。
ここには極めて分裂した自己像がよくあらわれているだろう。
人は通常、このような分裂には耐えられるものではない。
良心(自己との調和)があるところにはこのような分裂した自己は存在し得ない。
だが、その分裂を生き得るものとするのが<悪>である。
<悪>そのものを「美学」とするような生き方だけが、この分裂を耐えられる。
しかしそのような人間は滅多にいるものではない。
だからこそ、そのようなジレンマに陥った場合、人はよく、
アイヒマンがそうだったように、自己自身に関して無関心、無思考になるのだ。
『人間の条件』の中で、
アレントは、「人間の条件」を「多数性」と捉えていたという。
多数性とは、単に数が多い、という事ではなく、
今日で言われる「多様性」に近い意味である。
そこでは単に人間の属性(カテゴリー;例えば性的少数者)の多様性、
ということだけではなく、
自己自身の「多様性」というものも考えられており、アレントによれば、
「思考」とはこの自己の多様性に基づいて行われる対話の事を指すとされている。
アレントの「自己」は微分的なのだ。
そういう意味ではドゥルーズの哲学に通じるところもあるかもしれない。
古代ギリシア悲劇でコーラス隊(コロス)が重要な地位を担っていたように、
自己との調和(ハーモニー;フーコーであれば「自己への配慮」)は
全体主義と対抗する上でも重要なのである。