(前略)

 もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした。――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて行ったのです。抜けて行き、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「ゆたかにされて」。

 それらの歳月の間、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設定するために。

 これはみなさまには分っていただけると思います。事件、試み、どこかへ行く道の途中にいること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味が問われるなら、その問の中には時計の針の意味についての問も含まれると答えざるを得ないような気がします。

 というのも、詩は時のないものではないからです。もちろん詩は永遠性の要求を出します。しかし詩は時をかいくぐってであって、時をとびこえてではありません。

 詩は言葉の一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に――流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途中にあるものです――何かをめざしています。

 何をめざしているのでしょう?何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけ得る「きみ」、語りかけ得る現実をめざしているのです。

 そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。

 (後略)

(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」より)