G.ガルシア・マルケス『大佐に手紙は来ない』読了。

 

喘息病みの老妻と恩給のくるのを待ち続ける老大佐の日々を偏執的とも言える簡潔に描いた「大佐に手紙は来ない」(裏表紙より)

 

『百年の孤独』の文庫化で、

ネットの文学クラスタ界隈はちょっとしたお祭り騒ぎである。

 

100 年の傑作が50年の時を経て文庫化。6月26日発売決定。世界46言語に翻訳され、5000万部を売り上げている世界的ベストセラー。宿業を運命づけられた一族の、目も眩む百年の物語。

新潮社の宣伝文句もちょっと大げさすぎないかとも思うが、

ともかくも大江健三郎や中上健次、阿部和重など、

現在(戦後日本)の日本文学に与えた影響が甚大であることも確かである。

中上健次などは、筋だけ見れば、

マルケスの真似をしていたと言ってもいいくらいじゃないかと思う(失礼)。

 

ともあれそういう次第で

積んで置いた本作『大佐に手紙は来ない』を読んだのである。

上に引用したように、退役した大佐が只管恩給の知らせを待っている話である。

マルケスが新聞社の特派員として渡欧している間、

当時のコロンビアの独裁者によって新聞社自体が廃業に追い込まれ、

収入の断たれた中、パリの安アパートで書き上げられた作品だそうで、

そういう意味では待ち続ける大佐の姿は当時の作者自身を投影している、

とも言えるかもしれない。

いずれにしろマルケスの所謂「マコンドもの」の初期作品であり、

解説によれば、『百年の孤独』とは文体的にも結構開きがある、とのことである。

 

マルケスは一時映画業界に携わっており、

その創作の仕方は映画的だったと言ってよいだろう。

本作中にも映画のエピソードが出てくるが、その内容というと、

超保守独裁政権の下で映画が政府だけでなく教会によっても検閲されている

というもので、当時のコロンビアの映画事情を知らせてくれる。

このような映画的ないしは映像的な創作の仕方は、

マルケス以降ずっと幅を利かせてきた神話的文学からの脱却、

言ってみれば脱神話化、脱歴史化、

脱言語中心主義化という側面から重要な気がする。

 

思うにこの半世紀くらいの小説はずっと神話を志向していた。

そういう意味ではR.バルトの言う「神話作用」にずっと侵され続けてきたわけで、

文学(特に日本の小説)は

そろそろこうしたものから抜け出すべきなんじゃないかと、

僕なんかは思っている。

 

卑俗な文化風俗現象に構造主義的な視点から言語=秩序神話への拝跪を断つ批評。