斎藤美奈子『妊娠小説』読了。

 

『舞姫』から『風の歌を聴け』まで、望まない妊娠を扱った一大小説ジャンルが存在している──意表をついたネーミングと分析で、一大センセーションを巻き起こした処女評論。待望の文庫化。

 

斎藤美奈子の本はいつも面白くて好きである。

僕も含めた読者の潜在的なマッチョさ(僕にもないとは言えまい)を

徹底的にコケにし笑いのネタにしてくれるその手捌きが見事なのだ。

本書でもいろいろ笑わせてもらった。

 

本書が提起する「妊娠小説」の定義は冒頭に書かれてるのだが、

もっと笑える簡潔な一文でまとめられた箇所が後半にあったので引用しておこう。

ずばり

日本の妊娠小説は(非妊娠小説も)、<積分>や<ロシア語の二十四の語尾変化>や<エジプトとイスラエルの二十一世紀>で頭をいっぱいにしつつ<避妊を確実に遂行するための方法論>にはいっこうに無頓着な人で成り立ってきた

小説ないしその著者たちが属する文壇が量産するあれやこれやの商品、なのである。

言い換えればこれは過去150年ほどの歴史において、

日本文学が女性の身体をどう扱ってきたか、ということを、

妊娠や中絶といった装置の利用史の面から分析した殆ど最初の本、

と言っていいだろう。

本書が発表されたのはちょうど30年前だが、ここに書かれたことの大半は、

今でもそう変わってないように思えるのは僕だけだろうか。

 

ところで巻末の参照ブックリストを見ていると、

ある傾向が浮かんでくるように思える。

それはいわゆる反権威的(≒反知性的)と目されてきた作家ほど、

この「妊娠小説」という装置、方法論を使いたがって来たのではないか、

という事だ。

これは本書に書いてあることだが、そもそも戦前の日本では堕胎は罪であり、

戦後、中絶の事実上の解禁によって「妊娠小説」は量産化されるようになった。

しかし50~60年代はう欧米でも中絶禁止の風が根強く、

日本でも中絶禁止の論調が強まっていく。

石原慎太郎やW村上といった作家が揃って妊娠小説を量産していったことは

こうした権威に対するアンチのアティテュードを示す為ではなかったかと思う。