武田泰淳『富士』読了。

 

 

悠揚たる富士に見おろされる戦時下の精神病院を舞台に、人間の狂気と正常の謎にいどみ、深い人間哲学をくりひろげる武田文学の最高傑作。自作を語る「富士と日本人」、担当編集者・村松友視によるエッセイ「終章のあとのエピローグ」などを収めた増補新版。

 

戦後派の小説は例えば大岡昇平『野火』にしてもそうだが、どこか観念的である。

本書も例には漏れていないのだが、それでもどこか映画的なところがあって、

大島渚が映像化したら映画史に残る作品になったろうなと思う。

実際、大島渚は武田の『白昼の通り魔』を映像化している。

 

 

武田自身、映画が好きだったようで、映画に関する本も出ているようだ。

 

 

そもそも本作『富士』に関心を持ったのは、村上克尚氏による論考

「狂気と動物」を4,5年前に読んだことに始まる。

 

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そこでは本書の提起する問題意識を、

フーコーヤアガンベンといった現代思想に通じる文脈に

より引き付けて論じられていて、なるほどと思ったのだった。

 

村上氏の論文でもあるように、本作の重要な主題の一つは、

動物と人間をめぐる問題、言い換えれば、人間性とか人間らしさ、

といったものであると言える。

それはそのまま、現代思想におけるヒューマニズム批判の問題、

とりわけ、フーコーが提起した生政治ないしは生権力の問題に収斂される。

いうまでもなくそれは「ショアー」の問題と直結しているのだ。

 

実際、戦時中、日本の精神科病院は

ナチスによる障害者安楽死作戦(T4作戦)に負けず劣らず、

酸鼻を極める状態であった。

旧版の解説で精神科医の斎藤茂太は次のように書いている。

この物語の展開する昭和十九年は、どこの病院も大学の医局も、応召者があいつぎ、医師不足、職員不足に悩まされ始めた年であったが、まだ空襲は本格化せず、ベッド数は戦前のピークである昭和十五年の二万五千床をほぼ維持していたが、わずか一年後の敗戦時には一挙に四千床に激減するのである。

余談だが、斎藤茂太は、

本作の精神病院のモデルとなった国府台陸軍病院下部分室に実際に勤めていた

人物でもある。

『山梨』 その7  | 近代日本精神医療史研究会 (jugem.jp)

 

また、都立松沢病院の元院長・齋藤正彦はこの時期の松沢病院の状況を、

当時の院長である内村祐之の報告をもとにこう書いている。

 ここで強調すべきもう一つの事実は、患者の経済力と生命予後の関係である。自費で医療費を支払える自費患者と、公費ですべてをまかなう公費患者の区別があった。公費患者の食費は、もっぱら、府が給付する食費によってまかなわれていたのに対して、自分で医療費を支払うことができる自費患者は、家族からの差し入れも多く、食糧事情も世間並みを維持していた。

 死亡者が増加しはじめた一九三六(昭和一一)年から最初のピークを迎える四〇(昭和一五)年までの間、死亡者が増えているのは主として公費患者であり、自費患者の死亡率は一〇%未満に収まっている。(略)

 ところが、一九四三(昭和一八)年以降、自費患者の死亡率も一〇%を超えて急増し、終戦を迎える四五(昭和二〇)年には公費患者の死亡率四一・四%、自費患者の死亡率四〇・四%と、その差はほとんどなくなる。日本社会全体の困窮が病院内にも及んだことになる。

 

 

これらの証言から読み解けるのは、一九三〇年代以降、

悪化する日中関係を背景に、精神病患者や精神病院自体への配給が削減され、

患者たちが次々と餓死していった事実であろう。

 

本作が雑誌『海』に連載されていた一九七〇年前後は、

精神医療の現場からこうした過去や精神医療の実情に対する総括が

激しく求められていた時代であった。

第66回日本精神神経学会大会(金沢大会) (arsvi.com)

東大病院精神神経科病棟(通称赤レンガ)占拠・自主管理 (arsvi.com)

高度成長期のピークを迎えた日本全体が、

一つの転機に差し掛かっていたことの一つの証左と言っていいかもしれない。

 

しかしそれは今も決して過去の問題ではない。

昨年、八王子の滝山病院では激しい患者虐待が繰り返されていたことが

明らかにされた。

追跡「滝山病院事件」“不可解な医療”も 精神科病院で何が? | NHK | WEB特集 | 事件

ETV特集 「ルポ 死亡退院 ~精神医療・闇の実態~」 - 動画配信 (nhk-ondemand.jp)

こうした事例で埋もれているものはまだまだあるだろう。

 

こうした事件やあるいは障害者差別の根底には、

ナチスが行った「ショアー」につながるような、人間観の問題があると思う。

どこからが人間なのか、あるいはそもそも人間とは何なのか。

それはまた現在のガザ虐殺やウクライナ戦争に対しても展開されうる、

大きな問いとなるだろう。

本作はそうした問いの、ほんの入り口に立つきっかけになるだろう。