E.カネッティの『マラケシュの声 ある旅のあとの断想」を読んだ。
古都マラケシュの人々の心に深く旅し,その聴覚的世界に魂の始源の郷国をさぐる。作者の死の意識の風景にこの都の内的現実を鮮明に浮彫りにした紀行文学的文明論。
訳者…岩田氏が評するように、
まさに「聴覚上のアラベスク」といった趣を持っているエッセイ集である。
どのエピソードも印象深く心に沁み入ってくる。
特に印象深く心に残ったのは、「格子窓の女」、「中傷」、「驢馬の悦楽」、
「〈シェーラザード〉」、「見えざる者」だろうか。
「断想」と銘打たれるように、
一見、どのエピソードも独立したもののように見える。
だがそれを捉えているカネッティ自身の意識/無意識には、
一貫した「意識の流れ」のようなものがある。それは「驢馬の悦楽」で
願わくは、すべての虐げられた驢馬が悲惨な境遇にあってなおしかるべき悦楽を見出さんことを。
と記しているような人間観あるいは生命観である。
カネッティは西方に出自を持つ東方ユダヤ人(セファルディム)で、
ドイツ語でものを書き、戦争のためにイギリスへ逃れた。
そうした生涯やたまたま置かれた環境が、
彼をこうした考えへと導いていったのだろう。
訳者はこれを「死の意識」と評している。
カネッティにあっては死者あるいは死に行く者こそが権力者であり、
生きているものはそれに従属、奉仕しなければならないと
(僕らの普通の現実とは真逆に)考えられているのだ。
カネッティ自身はこれを「生の新しい絶望的な神聖さ」と書いているそうだ
(訳者あとがきより)。
生存バイアスという言葉があるように、
僕らはたしかに生き残ったものが強い、正しいという錯覚に陥りがちである。
だが何が本当に正しいのかはよくわからないままに、
惰性からその錯覚に従っているのが僕らの日常的な生活ではないだろうか。
カネッティが断想という非体系的な形で糾弾しているのは、
まさに僕らのこうした日常的な生活、考え方なのだ。