大澤武男著『ヒトラーの側近たち』を読了。

 

ヒトラーに共鳴・心酔し、あるいは打算で、ヒトラーの支配妄想を成就させようと画策したナチスドイツ。直観力に優れ弁は立つが、猜疑心が強く気分屋のヒトラーに、なぜ、ナチスの屋台骨である有能な側近たちが追随したのか。彼らにより強化され、エスカレートしていったヒトラーの支配妄想とはいかなるものだったのか。ゲーリング、ヘス、ハイドリッヒ、アイヒマン、ヒムラー、ゲッベルス…独裁者を支えた側近は、政局や戦局のときどきに、どのように対処し振舞ったか。過激な若者集団が世界に巻き起こした悲劇の実相をえぐる。

この本の目次

第1章 政権への道(よみがえる若者ヒトラー―輝く一級鉄十字章
ナチス党員番号2―エッサー ほか)
第2章 独裁支配の確立と戦争への道(国防軍司令官を前にした演説
独裁支配の演出―フリック ほか)
第3章 侵略戦争と側近たち(安楽死政策の遂行者―ボウラー
安楽死政策の方法と勇気ある司教 ほか)
第4章 破局を前にして(総統官邸地下壕
鳴り続ける電話 ほか)
エピローグ 彼らはどこで誤ったのか(国民の不満と過激な若者集団
個人崇拝のエスカレート ほか) (筑摩書房HPより)

 

ドイツ在住の研究者の手になる本。

風見鶏のようなゲーリング、オカルト大好きヒムラー、ごますりのゲッペルス、

一途なようでいてどこか抜けているエヴァ・ブラウン――

タイトル通り、ヒトラーの側近たちについて、それぞれの実像が語られている。

ヒトラーの、ナチス結党時からの政治的同志やヴァーグナー家などのパトロン、

支持者といった一個一個の歯車がいかに組み合わさって

ナチスという前代未聞の独裁機械が動いていたのかを浮き彫りにしている。

 

ナチスというとよくヒトラーのパーソナルな資質にのみ注目されがちだが、

実際にはこのような側近たち、

つまりはパトロンや支持者や配下といった者たちの存在によってこそ

ナチスの独裁体制は機能していたわけで、

こうした見方はナチスに留まらず、他の独裁体制、

例えば戦前日本やプーチンのロシアやネタニヤフのイスラエルなどの

体制について考える際にも重要だろう。

著者はエピローグに次のように記している。

 日本の第二次大戦における死者が百八十万(軍人軍属のみ;引用者註)であったのに対し、ドイツ人の犠牲者はその三倍に近い五百二十五万人であったという事実は、ヒトラーの戦争を早期に停止できなかったドイツの悲劇がいかに甚大なものであったかがわかる。

 周囲の側近たちが黙従を捨て、戦争の終結を早める工作をしていたら、絶滅収容所の早期解放も含め、数百万人の人命が救われていたであろうことを思うと、ヒトラー独裁の悪と暴走を知りつつ、それを許し、つき従ってしまった彼らの体質とその責任が問われているのである。

 否、彼らは服従したのみならず、ヒトラーの意向を推測、察知してその不法な犯罪を多方面に拡大すらしていったのであった。初期政治活動以来ヒトラーにつき従った運命を共にする同志であった彼らの間には、十分な批判勢力は生まれなかった。ドイツ国民も事態の真相を知らないまま、知らされないまま総統に最後までつき従ってしまったのである。

 二〇一〇年から今年(2011年;引用者註)の二月にかけて、ベルリンのドイツ歴史博物館において「ヒトラーとドイツ人」という異例の展示会が催されたが、その中でヒトラーに最後までつき従ってしまったドイツ国民のテーマは、まだまだ尽きることのない反省と議論と回顧の対象であることを明らかにしている。

 ヒトラーの手先となってしまった側近たちは、その問題の中心的存在なのである。

 

全体は部分の総和ではない、とはゲシュタルト心理学が教えるところだが、

彼らヒトラー(あるいは独裁者)の側近たちはまさしく、

全体は部分の総和だと思ってしまっているのだ。

こうしたベンサマイト的な功利主義的社会観こそがまさに、

全体主義体制を生み出すのだろう。

その意味で、「(独裁者の)側近」と「一般市民」を区別することは

非常に重要だろう。

そうでなければ七〇年代の赤色テロや南米の軍事独裁政権みたいなものが

量産されてしまうことになる。