ソンタグの写真/映像論『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ。
現代社会における際だった特徴は、世界中で起こっている悲惨事を目にする機会が無数に存在するということである。戦争やテロなど、残虐な行為を撮った映像はテレビやコンピューターの画面を通して日常茶飯事となった。しかし、それらを見る人々の現実認識はそうしたイメージの連続によってよい方向へ、例えば、戦争反対の方向へと変化するだろうか?
本書は、戦争の現実を歪曲するメディアや紛争を表面的にしか判断しない専門家への鋭い批判であると同時に、現代における写真=映像の有効性を真摯に追究した最新の〈写真論〉でもある。自らの戦場体験を踏まえながら論を進めるなかで、ソンタグは、ゴヤの「戦争の惨禍」からヴァージニア・ウルフ、クリミア戦争からナチの強制収容所やイスラエルとパレスチナ、そして2001年9月11日のテロまでを呼び出し、写真のもつ価値と限界を検証してゆく。さらに本書は戦争やテロと人間の本質、同情の意味と限界、さらに良心の責務に関しても熟考をわれわれに迫る、きわめて現代的な一冊である。(みすず書房HPより)
毎日、テレビや新聞や雑誌、インターネットのニュース記事などで、
ガザやウクライナなど、戦場の悲惨な映像/画像が流される。
戦争は確かに不正義であり、惨禍に見舞われた人々を救いたいという気持ちは
誰しもがもちろん抱くだろう。
だがそこから先、
受け手(消費者)の実際の行動様式は一枚岩ではないのが現実である。
ソンタグは人々のこの恐怖を避けようとする現実を踏まえ、
現に惨禍に見舞われている人々と
悲惨な映像/画像から目を背けたがる受け手(消費者)たちを、
「苦痛」というタームで結びつける。
惨劇の映像/画像は古代のアレキサンドロス遠征の時代から
ドラクロアの絵画(『キオス島の虐殺』など)を経て、
現代では至る所で飽和しており、
時にはサディスティックな目的にもよって拡散されている。
そしてそうした映像は往々にして
「政治的なもの」(K.シュミット)によって取り込まれる。
政治的なものの本質を「味方と敵の区別」に見出したカール・シュミット(1888-1985)の代表作。一九三二年版と三三年版を全訳し、各版での修正箇所を示すことで、初出論文である二七年版からの変化をたどれるように編集。さらに六三年版の序文や補遺等も収録した。行き届いた訳文と解説によって、「第三帝国の桂冠法学者」の知的軌跡が浮かび上がる。
本書でのソンタグの結論も、
最終的には受け手の政治的コミットメントの問題なのだ、というものに近い。
とはいえ彼女が写真や映像が持つ可能性を全否定しているわけではない。
(戦争にまつわる)そうした画像/映像は個々の政治的コミットメントの
少なくともきっかけにはなる、という、
ある意味極めて当たり前なこともきちんと指摘していて、現実的だと言えよう。
ソンタグが亡くなって間もなく19年になろうとしているが、
NATOによるセルビア空爆を支持していたことからも明らかなように、
彼女は夢見がちな反戦平和主義者では決してなかった。
それどころか本書で彼女は次のようにも書いている。
悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない。
彼女がまだ生きていれば、
今のこのガザやウクライナやシリア、ビルマなどの現状について、
どのように発言したのかは気になるところだ。
本書のベースとなっているのはソンタグ自身の『写真論』(1977年)と
2001年2月にアムネスティ主催で行われた講演「戦争と写真」である。
この講演の中で、彼女は次のように語っていたという(訳者あとがきより引用)。
……写真が私たちに代わって道義的、知的な仕事をするわけにはいかない。だが、私たちが私たちの道を歩き始める契機にはなるのだ。
ある人々はともすれば、
「事実」を知れば人々は自動的に動き出すと思い込んでいる。
しかし現実はそんなに簡単ではないし、よしや動きだしたとしても、
ジャーナリスト、戦場カメラマン、知識人といった人々は
当の災厄の中にある人々自身から白眼視されることが屡々あるというのが
現実である(E.サイードがいい例だろう)。
戦争にまつわるそうした現実をきちんと踏まえながら、
正義(=法)に基づく平和を手にするために僕らが何をしなければならないかを、
今一度考える必要があるだろう。