森鷗外の短編『文づかひ』を読んだ。
鷗外の所謂「ドイツ三部作」の最後を飾る作品で、
他の2作同様、鷗外の滞独時の経験が元になったフィクションとされている。
皇族が主催する会に参列した小林という軍人が
ドイツ留学時に体験したある事柄を微に入り細に入り話して聞かせる、
そういう話である。
小林がザクセン滞在時、
友人である士官メエルハイムの許婚者イイダ姫と知り合う。
まもなくイイダは小林に「文づかひ」を頼む。
メエルハイムを含め周囲の人から離れた塔の上で、
ドレスデン国務大臣ファブリイス伯爵の夫人宛の手紙を渡すのだ。
いろいろあって小林は年明けにようやく手紙を伯爵夫人に渡すのだが、
それから程なくしてドレスデンの宮殿を再び訪れた際、
女官として仕えるイイダの姿を見つける。
「血の権の贄は人の権」という、
イイダが父ビュロオ伯のものとして伝える言葉は重い。
因習が故にイイダはメエルハイムの許婚者とされ、
当時日本より明らかに「文明国」と見做されていたドイツにおいても、
その貴族社会においてさえこうした因習が残っている、という話を、
しかも小林のような一軍人が皇族が主催する会で話している、
という点が実に興味深い。
イイダにしても小林にしても、これは一種の抵抗の型と言えるだろう。
鷗外と言えばよく「諦念(レジグナチオン)」が語られるが、
「諦念」とは単に現状を前に無力に従うということではなく、
寧ろ出来事の仕組を明らかにし(明らめ)、それに満足する、ということだろう。
有能な軍医でもあった(最終階級は軍医総監)鷗外の、
無神論的な側面が垣間見えるような気がする。
「近代」とはつまりこのような、状況に対する抵抗の集積なのだ、
と鷗外が言っているような気がする。
また、「文づかひ」というタイトルは別の連想も呼ぶ。
鷗外がこの出来事を記述するための「文づかひ」(文体練習)だったのではないか、
という連想だ。
そう考えると、この作品は近代日本文学史を眺める上で、
もっと意外で面白いものとして見えてくるかもしれない。