ビン・リュー監督の『行き止まりの世界に生まれて』を観た。

 

 

 

 

行き止まりの世界に生まれて|dTV(ディーティービー)【初回無料おためし】 (dmkt-sp.jp)

「全米で最も惨めな町」イリノイ州ロックフォードに暮らすキアー、ザック、ビンの3人は貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。スケート仲間は彼らにとっての唯一の居場所で、もう一つの家族だった。そんな彼らも大人になるにつれ、さまざまな現実に直面し段々と道を違えていく。カメラは、明るく見える彼らの暗い過去、葛藤を抱える彼らの思わぬ一面を露わにしていくーー。

 

2018年公開の映画だが、驚くのはここで描き出される紋切り型の「青春」が、

L.クラークが1995年に監督した『KIDS』や

H.コリンの初監督作『ガンモ』(1997年公開)、

或いは2008年公開のドキュメンタリー映画『ビューティフル・ルーザーズ』などと

ほとんど変わっていないことだろう。

 

 

 

 

 

 

スケボー、酒、たばこ、マリファナ……

ほぼ20年間、アメリカの底辺の若者の生活を占めるものは変わっていないのだ。

そしてこの映画からはっきりわかるのは、

米国社会、特に中西部の町で、

如何にオイディプス的な家族観による抑圧が強いか、ということだろう。

 

銃は身近にないし人種差別のような問題もさほど顕在化してはいないが、

こうした問題は日本でも、

少なくとも僕が少年期を過ごした東北などでも同じだろう。

ドラッグはともかくとしても、酒やタバコや無意味なバカ騒ぎ、

そしてスケボーに興じる少年などは僕の周辺にもいた。

田んぼしかない田舎では他にすることなど何もないし、

小うるさい大人たちから逃れたいと若者が思うのは、古今東西、同じだろう。

 

家庭不和や家庭内暴力、虐待といった問題も同様で、

米国のみならず日本でも恐らく凡庸な話だろうが、

肝心なのはこうした土壌から、トランピストや福音派信者が誕生している、

ということだろう。

こうした話題はネット空間でもよく俎上に挙げられるが、

概してイデオロギー(思想)の問題として取り上げているものが非常に多い。

だが敢えて言うと、これらは本質的には経験論的な問題なのだ。

 

ヒトは元来、与えられた環境に適応しようとして生きる。

その適応に失敗した時、何らかの徴候が現れる。

それは時に病(適応障害など)であったり病的な行動(依存症など)であったり、

或いは極端な場合には犯罪(無差別殺人など)として現れる。

日本では安倍晋三が射殺されて以来、

旧統一教会の話題が連日メディアに取り上げられているが、

こうしたカルト的な信仰の伸張も、徴候の一つと言えるだろう。

社会心理学で言う「認知的不協和」を解消しようとする結果である。

 

現状の社会を前提とする以上、こうした徴候はどこまでも付きまとうだろう。

抜本的に改善するとすれば、社会を変革するしかないのだ。