佐藤俊樹著
『社会は情報化の夢を見る [新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望』読了。
新しい情報技術が社会を変える!―私たちは何十年もそう語りつづけてきたが、本当に社会は変わったのだろうか?そもそも情報技術と社会とは、どんなかかわり方をしているのだろうか?「情報化社会」という夢の正体を、それを抱き、信じたがる社会のしくみごと解明してみせる快著。大幅増補の新世紀版。
「情報化社会」と言われ続けて半世紀以上が経つ。
が、僕たちの社会はそれほど変わったのか?
そんな疑問を根源的なところから再認識させてくれる本である。
近代において最初の技術革新は、
M.マクルーハンによって指摘された所謂「グーテンベルクの銀河系」、
つまりは活版印刷の「発明」であろう。
しかし活版印刷はグーテンベルク以前に既に朝鮮半島などに存在しており、
活版印刷が、
あるいはそれに伴って普及が進んだドイツ語版聖書が社会を変革したという、
マクルーハンやM.ヴェーバーらの主張が如何に的を外してるかを示している。
同様に、1960年代以降断続的に主張されてきた「情報化社会」論も、
近代産業社会を変革するどころか。
逆に近代産業社会の方が構造的必然的に要請するものであると著者は言う。
もちろん、従来の情報化社会論でも「社会を視野に入れなければ」といわれている。実際に「イデオロギー」とか「政治的誘導」を論じたものもある。けれども、それらもどこか底の浅い評論に終わっている。それは、なぜ情報化社会論では社会のしくみが見えてこないか、まで考えていないからである。
情報化社会論はたまたま社会のしくみが見えなくなっているのではない。むしろ、そこには、社会のしくみを見えなくしてしまう社会のしくみが働いているのである。つまり、「情報技術が社会のしくみを変える」と言われること自体、一種の社会現象なのだ。それは私たちのこの社会の本質と密接にかかわっている。「情報化社会」とは何かを考えるためには、そこまでさかのぼっていく必要があるのだ。
パーソナル・コンピュータの出現やネットの普及は、
たしかに僕らの生活の利便性を向上させてはいる。
とはいえ、言ってみれば、それだけのことではないのか?
こうした疑問は誰しもが抱き得るものだろう。
実際SNSの普及で僕たちの生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)が
それほど向上したとは思えない。
むしろ最近ではSNSなどの影響によって「公共性」という概念そのものが
再考に付されている感すらある。
トランプ現象、ウクライナ戦争、原発再稼働などのエネルギー問題などなど…。
SNS(やネット空間)を発端として、
社会が不断にひび割れ続けているのが現状ではないだろうか?
それは僕ら自身の生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)の向上という、
本来の意味での「変革」とは程遠いものだろう。
家族や市場は公共性がどうあるべきかという問いとは別に、具体的な制度として存立している。歴史的にさかのぼれば、近代国家以前から、いや公共性という概念が出現する以前から、家族や市場、少なくともその類似物は存在していた。
むしら、日本語の「公」が「おほやけ」=大きな家であり、古代エジプトで「ファラオ」が「ベル・アア」、やはり大きな家であるように、家族や市場は長い間、公共性という概念に内実をあたえてきた。家族や市場が公共性と深くかかわっているというよりも、家族や市場をめぐる経験から公共性という概念が抽出されてきたのである。職業的に法律にたずさわる人々をのぞけば、今もおそらくそうではないか。
それゆえ、家族と公共性、市場と公共性という問いかけには、どう答えるかについての枠組みがすでに用意されている。家族や市場をめぐる新たな変化から公共性の新たな側面をきりだすこともできるし、あるいは因果を反転させて、公共性の新たな変化が家族と市場の新たな変化をもたらしつつあるということもできる。家族や市場と公共性の概念が根を一にしているという事実が、こうした問い―答えの回路を安定的に維持してくれるのだ。