稲垣久和著『国家・個人・宗教 近現代日本の精神』読了。
愛国心問題とスピリチュアル・ブームの共通点とは? 国家神道という特異な宗教で国民をまとめた戦前、宗教を語らない戦後の知識人。国家とは? 個人とは? 現代のスピリチュアルブーム、愛国心騒動につながる問題に鋭く切り込む。
ひと頃、「スピリチュアル・ブーム」というものがあった。
TVや雑誌に毎日のように美輪明宏や細木数子や江原啓之といった
「霊能者」や占い師が出て来て辛口な論評も交えて芸能人や素人を叱咤激励し、
「オーラ」や「パワースポット」といった言葉が街中に溢れていた。
「パワースポット」なんてのは最早定着した感があるが、
SNSなんかでは今でも、プロフィールに「趣味、神社仏閣廻り」とか書いていたり、
御朱印集めを趣味としているという人が散見される。
率直なことを言うと、僕は当時からこういった風潮に違和感や抵抗感を感じてきた。
それは本能的というか純粋に身体感覚的なものではあったが、
本書ではそれがよく論理化、言語化されているように思った。
著者は戦後知識人の2人の巨人の対談を出発点に、
日本における国家と個人と宗教の問題について考え始める。
その対談は次のようなものだった。
南原繁
そこで極端にいいますと、近ごろの進歩の過剰というか、自由というものを極端に推し進める人は、神や神の国などというものは迷信だと片づけてしまう。国家などに価値を置かない。個人とその自由があればいいというようなはき違えがある。だから、今申したような批判と反省を経たのち、そこでもういっぺんわれわれの祖国をどう考えるか、我々人間と神との対決をどうするか、そのとき、国家や民族の奉仕すべき役割は何かという課題が出てくる。一般に現在の日本における国家意識の希薄化がよく問題になりますが、国家が我々にすべてを命令し義務付けるという形式ではなしに、今まで述べられた理論の過程をへた上で、もう一度祖国を顧み真のモラルや宗教を考えることが必要なのです。それがなくて、はき違えというか、ゆきすぎというか、他の極端に走る恐れがある。
丸山眞男
それは極端になるということではないと思うのです。私にいわせれば国家意識がなくなった、愛国心が戦後なくなった、嘆かわしいとよくいわれます。そこから、戦前は多少ゆきすぎたが、ちゃんとしたものがあった、そうした愛国心、国家意識をおこさなければならないというふうに里帰りする。ところが逆に考えれば明治以来、あんなに懸命に作りあげた愛国心は軍事的敗北によって、たちまち虚脱状態になり、パンパン根性になり、天皇の代わりにマッカーサーの命にこれ従うということになるようなそういう愛国心だったことが暴露したということじゃないでしょうか。どうしてそんなにタワイのないものだったのか、ということが問題です。(『南原繁対話 民族と教育』)
仏教、儒教、神道など、元々多様な信仰が入り混じっていた日本に、
明治維新が齎した大きな変化、
その直後から始まっていた私宗教の弾圧と国家神道の公民宗教化が
今日の日本社会の、
とりわけ憲法や教育基本法の改正にどんな影を落としているのか、
筆者は明快に述べたうえで、
これからの日本が目指すべき、在り得べき未来像を提示している。
著者はキリスト者なので、プロテスタント側の立場からの主張の色は垣間見えるが、
大筋で誰もが共感できるものとなっているのではないだろうか。
ところで本書は2007年に刊行されているが、
刊行直後から現在に至るまで、論壇などで話題になった痕跡がほとんどなく、
重版もされていないようである。
これが今の日本の「論壇」のレベルなのだろう。