M.スコセッシ監督『沈黙-サイレンスー』を観た。
17世紀。江戸初期頃の日本では、幕府により厳しいキリシタン弾圧が行われていた。日本での布教活動に情熱を注いでいた高名な宣教師フェレイラが捕らえられ棄教したとの報に接した弟子ロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオ経由で長崎に潜入。そこでは、想像を絶する光景が広がっていた。弾圧の目をかいくぐった隠れキリシタンたちの現状も目の当たりにする。幕府は一層取締りを強化、キチジローの裏切りに遭い、ロドリゴたちも捕らえられてしまう。頑なに信心を曲げないロドリゴに対し、長崎奉行は彼のために犠牲になる人々を突き付ける。信仰を貫くべきか、棄教し目の前の人々の命を守るべきか。追い詰められ自身の弱さを実感したロドリゴは、選択を迫られる。(ⅾTVより)
原作は言わずと知れた遠藤周作である(ちなみに未読)。
見ながら考えていたのは旧約聖書の「ヨブ記」のことである。
スイスの精神科医C.G.ユングには『ヨブへの答え』という大著(未読)があって、
ユングはそこでユダヤ教の神ヤーヴェの性質を分析していたという。
その概略は訳者でもある林道義によると次のとおりである。
ヤーヴェは正義や倫理の立場に立っているのではなくて、ただ力で人間を支配しようとしているだけで3ある。そのため人間には契約を守ることを要求しながら、自分の方は平気で破ったり、ヨブの忠誠を疑ってみたり、不幸におとし入れて試してみたり、脅してみたり、およそ全知全能と言われるのにふさわしくないことばかりする神様である。この嫉妬深い不思議な神の性質を心理学的に見ると、ちょうど自分の心理に暗い暴君のような父親の性質と同じだというわけである。だからそれが周りの人々に現れるときには、彼の無意識は人間的なものとしてではなく、まるで自然現象として現れるので、苛酷で暴力的で、恐ろしく、そして道徳的基準があてはまらないのである。
ユングがこう指摘するのはもちろんフロイトの性理論への批判の文脈でなのだが、
それはさておくとして殆どすべての宗教教義にはこうした面があるのではないか?
たしかに、今も昔も、
日本社会の標準的なものの捉え方は、ある意味で唯物的(即物的)である。
その意味で「木の根付かない沼地」なのかもしれない。
son(イエス)はsun(大日如来)と同一視され、
伝統的なシンクレティズム(神仏集合)の下に回収される。
フェレイラの言うように、「正統」な教えはそこでは存在せず、
恰も「沼地」(ニーチェの言葉を借りれば「砂漠」)が広がっているかのように
見えなくもないのだろう。
しかし、そうした状況は何も日本だけではなかったはずである。
今日でも南欧などでは黒マリア信仰(ケルト由来と言われる)が見られるし、
世界各地で、
厳密な意味での正統派カトリックとは異なるキリスト教系の信仰は見られる。
仏教などにおいても事情はほぼ同じである。
だからこの作品の主眼は、正統派カトリックとか切支丹とか、
そういった個別具体的な信仰の、正統/異端の問題ではない。
宗教問題ですら、ない。
では、遠藤=スコセッシが描こうとしていた問題は何かと考えてみれば、
やはり個人と社会との関係性、その在り方について、だったと思う。
マイノリティであれマジョリティであれ、
ヒトは一個の動物として、単体で生きることは不可能に近い。
都市の真ん中でロビンソン・クルーソーに憧れることはできるが、
ロビンソン・クルーソーはおそらく高度に発展した都市を、
そこで生活する人々のことを想像することはできないだろう。
ヒトは必ず、何らかの共同体に拠って生きるしかないのだ。
根を捥がれ、幹を切り倒された人々は、
ではどのような共同体に拠って生きるのか、生きるべきなのかが、
この作品が提示する最大の問いだろう。
答えはおそらく、人の数だけある。