A.カミュ『異邦人』読了。

 

 

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。 

 

「太陽のせい」という台詞はあまりにも有名だが、

読んでみると、それを不条理の象徴のように言うのはちょっと違うのではないか、

という気がする。

というのも、ムルソーが起こしたこの殺人事件の審理の直後には、

別の父殺しの審理が日程的に控えており、

ムルソー事件の検事は明らかにそちらの審理に影響を及ぼすことを意識しており、

また、夏のアルジェリアの廷内の、

茹だるような暑さについても再三にわたって描写されている。

ムルソー自身、半ば熱中症のような状態である。

カミュが描きたかったのは不条理よりも寧ろ、後半の死刑の問題ではないのか。

 

カミュは戦後フランスの死刑廃止論者として代表的な存在である。

人を殺しておきながら何一つ反省することなく

断頭台へと上っていくのはムルソーだけではない。

そもそも死刑とは社会秩序を守る儀礼として行われるだけのものに過ぎず、

加害者の反省とか被害者への補償などといったものは何一つ考慮されていない制度である。

フランスで死刑が廃止されてから40年が経つが、

それによってフランスの凶悪犯罪が急増したという話も聞かない。

そもそもフランスでは1939年まで死刑が公開されており、

執行の度に物見遊山の人々が大勢集まり、

その混乱で執行自体ができなくなる状態が多発したために公開が行われなくなった。

『異邦人』をカミュが書き始めたのは1937年と言われるから、

年代的にも符合する。

 

死刑を廃止すべきか存続すべきか、もちろん意見はわかれるだろう。

犯行態様によっては死刑が妥当ではないかと思える事例も確かにある。

だがそれでも僕は、死刑という刑は、

例えば終身刑などによってとって代わられるべきものではないかと考えている。

加害者には、その生を自然に終える日まで、

被害者や遺族と向き合い続ける時間がやはり必要なのではないか。

世間の懲罰感情に基づく安易な厳罰化が進み、

加害者と被害者ないしは遺族との関係性があまり顧みられることがない今日であればこそ、

特にそう思う。