佐藤忠男『見ることと見られること』読了。

 

 

かつて人は、共同体のなかで他者の視線を浴びながら自己を形成していた。メディア社会の現代では、見る/見られる関係は大きく変容する。視線を浴びる人と見るだけの人に分化した現代人の危機。どんな時代でも、誰かのまなざしに見守られることが人間には必要である。映画評論の第一人者による視覚文化からみた現代社会論。

 

3月の佐藤忠男さんの訃報はショックだった。

 

 

ちょうどこの本を読み始めたばかりのところで、

なにか虫が知らせたような気すらした。

 

佐藤忠男さんは映画評論家であり、

日本映画学校の校長としては教育者でもあり、

雑誌『思想の科学』の元編集長でもあった。

 

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」 第2回 ひとびとの哲学を見つめて~鶴見俊輔と「思想の科学」~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス 戦後日本のあゆみ

 

本書はそういう佐藤さんの、

広義の「映像」(=目に見えるもの)という切り口からなされた

現代社会評論集である。

昭和から平成へ切り替わる前後の、

各種雑誌に掲載されたエッセイや講演録を基に編まれている。

と言っても主題がそれぞれバラバラなわけではなく、佐藤さん自身が

 この本は私にとって重要なものである。私は評論家として日々新しい作品や問題に出会って論評を加えているが、それらを個々バラバラの文章として書いて切り売りしているつもりはなく、全体を一貫する主題はある。コミュニケーションとはなにか、ただ意味が通じるという以上の、心が通じるコミュニケーションとはなにか、それによって形づくられる心とはいったいなにか、ということがその重要なひとつである。

と「岩波現代文庫版のためのあとがき」で書いているように、

主題はひとつ、タイトルにもなっている「見ることと見られること」だ。

 

 

 (引用者註;記録映画『ねむの木の詩』出演の)この子たちは客観的に見れば不幸かもしれない。しかしそんな客観的な見方の中にこの子たちを押しこめてしまうのではなく、逆に自分たちはこんなに美しいのだと子どもたちに自覚してもらいたい。あなたたちをほんとうにかわいいと思って撮り、それに共感しているおとなたちの視線を感じてもらいたい。さらにはそういう視線を映画という手段で社会の共有のものにしたい。それがこの映画の目的なのである。だからあえて客観性を放棄してさえいるのだ。(「見ることと見られること」)

 

 言うなれば、笑いとは正しさから逸脱することの喜びの表明ではあるまいか。(「私は笑ってほしい」)

 

 ひとりの道化師が、そのヲコのふるまいで国境を越えて世界中を笑わせるというかつてない情況が、一九一〇年代に生じた。ハリウッド映画に、バスター・キートン、チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイドなどの偉大なコメディアンたちが活躍をはじめたときである。なかにはバスター・キートンのように終始大まじめな顔をしてニコリともせずに馬鹿げたことをやって見せた名人もいるが、チャップリンなどは、馬鹿げたことをやって見せながら、ときどき、なんて私は馬鹿なんでしょう、というように、ニッコリ、声をたてずに、しばし悲しみやテレくささを含めた笑い顔を見せる。そのテレに含まれている批判の理知が、のちに「チャップリンの独裁者」のヒットラー批判に見られるような痛烈な風刺に発達する。ただし、それを単純に進歩として、笑いの質が高くなったと言うべきかどうかは疑問である。チャップリンのヒットラー批判はたしかにヒットラーを憎む人々を笑いで結束させることができたが、それ以前のサイレント映画時代のキートンやチャップリンやロイドのスラップスティック・コメディは、その共通するヲコの芸で、全世界を笑わせることができたのに、トーキーになって言葉を得てからは、チャップリンの風刺だけが生き残って、全世界を同時に笑わせることのできるヲコの者はいなくなった。全世界がいっしょに笑えるということは、サイレント映画時代に一時期成り立って失われたわけで、大衆文化の見果てぬ夢である。もちろん、全世界がいっせいに笑えるようになったら世界に平和がくる、かどうかは分からないが。(「笑うことと笑むこと」)

 

 

映像は言語とは異なる原理で作動する。

よく、「人間は言語でものを考える」と言われることがあるが、

僕は全くそうは思わない。

人間は言語よりは映像でものを考えているし、その意味で、

僕らはソシュールよりもC.S.パースにより近い。

佐藤さんはそのことをよくわかっていたと思う。

だからこそ、ここに収録された12本のエッセイや講演録には

どれも頷かされ、膝を打つような発見が鏤められているのだ。