松戸清裕『ソ連史』読了。

 

 

 

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、放置していた本書を読もうと思った。

侵攻が始まって3週間余りが経つが、

世間ではなぜかソ連に関する言及が少ないように感じるのは僕だけだろうか。

 

 多民族の連邦国家であったソ連は一九九一年の後半から末にかけて、連邦を構成していた一五の「民族共和国」へと解体された。ソ連における公式見解では、民族問題は解決済みのはずであった。しかし実際には諸民族の間に深刻な矛盾と対立が潜在していたのであり、ペレストロイカ期に各地で噴出した。ペレストロイカが始まるまでは、全般に民族間の紛争はかなりの程度抑え込まれていたが、ペレストロイカの結果として、経済と生活が悪化し、情報公開が進み、一定の政治的自由が承認されたことに伴って、潜在的に存在していた民族的な緊張や対立が表面化し、激しさを増したのである。

 ペレストロイカ期に噴出した民族紛争は、連邦内分業や資源配分において「搾取されている」、「損をしている」といった経済的な利害意識によって増幅されていった面があると指摘されている。連邦の中心であったはずのロシア共和国の人々についてもこれは例外ではなかった。たとえば、連邦中央は、中央アジアやザカフカスのいくつかの共和国のモノカルチャー化を進めた一方で、生活水準が相対的に低かったこれらの共和国の生活水準を引き上げるよう配慮し、予算や資源を相対的に厚く分配することもあった。「中心」が「周辺」を収奪するばかりではなく、「中心」の富を「周辺」に移すかのような面もあったのであり、ロシア共和国の人々はこうした状況を感じ取り、自分たちは損をしているとの不満を持つようになったというのである。

 

建国以来の生活物資不足、

産業発展のための軍需を中心とした重工業への偏重した注力

(八〇年代には軍事費は国家予算の四割に達したという)、

またそれに伴う各地域のモノカルチャー化、

貧富の格差、そして民族対立。

 

もともとロシア革命は

第一次大戦による生活物資の不足から人々が反戦を訴え始めたのが発端だった。

その国が崩壊し、今や大きな火薬庫となっているのは皮肉な話だと思う。

民族対立の要因の一つはソ連が辿ってきた歴史の中にもある。

 

 とはいえ、この戦争(注:独ソ戦)に際しては、戦争の過酷さ故に過剰に反応したのだとしても、そのことをもって正当化することは決してできない大規模な抑圧があった。例えば民族の強制移住である。

 まず、ソ連国内のドイツ系住民を敵視する政策が採られた。ロシアでは一八世紀後半からドイツ人の植民が奨励され、ヴォルガ川下流域を中心に数万人規模でドイツ人が移住していた。ソヴェト政権の成立後、この地域に住むドイツ人は、民族自決の原則に基づきロシア共和国内にヴォルガ・ドイツ人自治共和国を建てることが認められ、一時は数十万人のドイツ人がここに暮らしていた。一九四一年六月に独ソ戦が始まると、同年八月には、同自治共和国のみならずソ連全域に住むドイツ人が対独協力を疑われ、強制移住が決定された。約八十万人のドイツ人が「ドイツと通じたスパイ・破壊分子」として前線から遠く離れたシベリアやカザフスタンに強制的に移住させられ、同年九月には、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国は廃止された。

 ドイツ軍の侵入を許したのちソ連軍が反攻に転ずると、一時期ドイツの占領下におかれていたクリミア半島のクリミア・タタール人、沿ヴォルガ・カフカス地域のチェチェン人、イングーシ人、カルムィク人、カラチャイ人、バルカル人などが「利敵行為の恐れあり」とされ、やはり東方への移住を強制された。

 このようにして一九四〇年代に強制移住させられた人々は三〇〇万人を超えたと言われるが、さらに、これより前、日本および満州国との緊張が高まるなか一九三七年には、極東に住む朝鮮人約十七万人が「日本のスパイ・破壊分子」として中央アジアに強制的に移住させられていた。こうした「民族」を理由とした強制移住の他にも、ドイツ占領下での「対敵協力」のかどで反逆罪に問われた人々、ドイツの捕虜となったことを理由に収容所送りとされた人々も多数存在した。

 ゴルバチョフの回想には、故郷の村がドイツ軍から解放された際の悲劇が記されている。ドイツ軍は村を占領すると最長老のザイツェフを村長に指名した。彼は頑強に渋ったが、村人から説得され、村民を守るため全力を尽くした。ドイツ軍が撤退すると、彼は「国家反逆罪」で一〇年の刑に処せられ、「『人民の敵』として監獄の中でこの世を去った」。

 

戦時期の収容所(ラーゲリ)の様子がどのようなものだったかは、

A.ソルジェニーツィンの代表作『イワン・デニーソヴィチの一日』でも

詳しく描写されている。

 

 

ソルジェニーツィンは戦地から親類へ送った手紙の中で

スターリンへの批判を書いたとして

「国家反逆罪」で収容所へ送られている。

またプーチンは今年に入って、

こうした収容所送りになった人々の名誉回復のために活動していた市民団体

メモリアル」を解散させている。

 

ソ連時代のウクライナ地域個別の問題もある。

よく知られているのがチェルノヴィリ原発事故だが、それだけではなく、

1961年には「クレニフカの悲劇」と呼ばれる廃棄汚水ダムの決壊事故があった。

これについては現代ウクライナの詩人リーナ・コステンコが語っている。

また戦前まで遡れば、

ホロドモール」や「ヴィーンヌィツャ大虐殺」といった歴史的事件もある。

ウクライナ住民の反露感情にも一定の背景があるのだ。

 

レーニンはソ連建国にあたって民族自決と科学的管理法(テイラーシステム)を

国是としたという。

しかしソ連という国の核を貫いていたのは帝政時代から続くロシア・ナショナリズム

ないしは自民族中心主義(エスノセントリズム)であったことは疑いようがない。

プーチン政権はその残滓と言うべきだろう。

 

また経営技術としての科学的管理法も、

今日では様々な問題点が明らかになっている。

代表的な反証が「ホーソン研究」だろう。

ホーソン研究以降、今日の経営法の中心は

E.メイヨーによって創始された人間関係論に移りつつある。

 

いずれにせよソ連という20世紀最大の実験とその失敗が、

今日のロシアとその周辺の諸国との間にある様々な問題の一因となっている。

僕たちはそのことを十分に念頭に置いておかなければいけない気がする。