篠原資明『ドゥルーズ――ノマドロジー』を読んだ。

 

 

G.ドゥルーズ(とガタリ)の哲学を概観する解説書と言っていいだろう。

ただし、入門というには少し難解な部分もあるかもしれない。

ドゥルーズ哲学が前提とする知識を少し入れてから読むのがいいと思うが、

その点では先日呼んだ木田元の『マッハとニーチェ』なんかは非常に役に立つかもしれない。

マッハの説いた非形而上学的な物理学の世界はそのまま

ドゥルーズ哲学の世界につながってると思うし、

そういう意味ではドゥルーズとは哲学から形而上学的、観念的な要素を脱色しようと

生涯努めた哲学者であったと言えるかもしれない。

 

ドゥルーズの哲学は一般に、初期、中期、後期と、三つの時期に分けられることが多い。

初期にはヒューム、スピノザ、ベルクソン、ニーチェ、カントなど、

彼以前の哲学に関する研究が多い。

プルーストやマゾッホといった文学者に関する研究もある。

中期になると、『差異と反復』を嚆矢とした彼独自の哲学、

それにF.ガタリとの共著群(『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』など)が挙げられる。

膨大な量の映画作品が参照される『シネマ1・2』もこの時期に入れられるかもしれない。

後期にはやはり『哲学とは何か』のような、集大成となるような著作が多くなる。

ライプニッツを扱った『襞』や盟友フーコーに捧げられた『フーコー』なども

この時期に入るだろう。

 

本書ではそのようなドゥルーズの哲学を時代順に概観する形で解説していく。

もちろん、ただ著作を年代ごとに紹介するだけではなく

そこに見られる通奏低音としての鍵概念があるわけだが、

それがサブタイトルにもなっている「ノマドロジー」という概念である。

「ノマド」とは遊牧民の意味で、

「ノマドロジー」はライプニッツの「モナドロジー」という概念に対応しているとされる。

ただし本書では『襞』の内容については殆ど触れられていない。

難解な書物とされるから、そういう事情もあったのかもしれない。

 

ドゥルーズ(とガタリ)は「ノマド」的な在り方を称揚した。

ただしそれは思考の次元における話で、

ドゥルーズ自身は生涯のほとんどをパリの自宅で過ごしている。

ドゥルーズはこのことを問われて

ノマドは動かない。

と答えている。

 

定住的な思考、つまり西洋の伝統的な形而上学や観念論に対して、

ドゥルーズ(とガタリ)は生涯遊牧民的であろうとした。

初期の、両者一体のものとしての「差異」と「反復」や、「思考のイマージュ」といった概念、

あるいは中期に展開された「器官なき身体」や「戦争機械」といった概念群、

さらには後期の「襞」や「内在平面」といった概念にしても、

すべてこのノマド的な思考の在り方、スタイルに関わっていると言っていい。

それは時代や状況に対して、ある逃走線を引くことに他ならない。

出口を求めることと言ってもいい。

宗教のように何らかの普遍的な解答を押し付けるわけではなく、

それぞれに引きうる逃走線の引き方の指針を示していた、と言ってもいい。

自由など、いりません。出口さえあればいいのです。

と書きつけたF.カフカのように、ドゥルーズは只管、

時代の出口の求め方を示していたように思える。

たとえそれが、

窓から自らの身体を投げ捨てるような、破滅的な出口であったとしても。

 

自由であることはもちろん重要だろう。

ただしその「自由」そのものが、僕たち自身を窒息させるものであっては意味がない。

必要なのは出口であり、生きている僕たちはいつでも出口を探しているのだ。

その意味で、出口の求め方を説き続けたドゥルーズ(とガタリ)の著作は、

今なお生き、健康に呼吸をしている。

著者はそのことをこんな風に書いて本書を結んでいる。

 ドゥルーズは、何度でもよみがえるはずだ。さまざまな姿をとればとるほど、それだけ激しい強度を持って。彼の著作は、未来の過剰な反復を秘めているのだ。