秋田県立美術館で開催中の戸嶋靖昌展を観てきた。
戸嶋靖昌のことを知ったのは、いつだったかの日曜美術館だった。
俳優・奥田瑛二が、TV番組でスペイン滞在中に出会った戸嶋との思い出を語っていた。
彼がこの秋田と深い所縁のある人物だと言うことも、
たしかそのときに知ったはずだと思う。
戸嶋靖昌は1934年(昭和9年)、
鉱山技師だった父親の赴任先・栃木で生まれたが、
まもなく父親が肺結核で亡くなり、両親の故郷・秋田で育つことになったという。
父親の実家は現在の北秋田市で代々地主の家柄で、
母親も大館の名家の出だったらしいが、
戦後の農地改革で没落し、靖昌自身も小学校の代用教員等をしながら苦学したらしい。
母親の反対など、様々な苦難を経て武蔵野美術学校(現大学)を卒業後、
次第に美術家として頭角を表し始めた彼の転機となったのは、
1970年(昭和45年)の三島由紀夫の自決だったという。
この事件に衝撃を受けた靖昌は名声を追うことの虚しさを痛感し、
次第に絵が描けなくなっていったようだ。
そうした中でも彼が続けていたのは、近所の神社の鎮守の森へ通い、
鬱蒼とした樹木を描くことだった。
この時期の彼の作品で、
その後画家自身が終生愛することになる作品に『冬の庭』というのがあって、
これが不思議な印象を抱かずにはいられない作品だった。
画面一面には鬱蒼とした樹木が網の目のように描かれ、
光はその黒々とした枝枝の隙間から僅かに覗けるばかりなのだが、
画面、特に黒々した樹木の影をじっと見つめていると、
光が画面一杯に広がってくるかのような錯覚に襲われる。
そしてそれは紛れもなく、冬の白っぽい木漏れ日なのだ。
長年僕なりにいろんな絵を見てはきたが、
こうした経験をするのははじめてのことだった。
同様な印象は、
靖昌がその後まもなく日本での創作に行き詰まりを感じて渡ったスペインで
制作された『コルクの森』という作品でも感じることができた。
『コルクの森』のほうは確かに『冬の庭』よりは描かれた「光」の面積は大きいが、
それでもやはり、『冬の庭』同様、
鬱蒼とした樹木の影そのものが光輝いて見えるかのような印象を受ける。
光と闇と言えば、
誰もがやはりベラスケスやレンブラントの作品を思い浮かべるだろうが、
戸嶋もやはり彼らの影響を強く受けている。
また彼はエル・グレコの影響も強く受けていたようで、
樹木や裸婦の形象などはまさしくバロックというかマニエリスム的なものを
確かに感じる。
加えて僕などはゴヤの一連の作品も連想した。
ゴヤに傾倒した作家・堀田善衛の死に際して捧げられた絵もあったから、
靖昌自身も多少は意識していたのではないだろうか。
樹木への偏愛については、キャプションでも何度か触れられていたが、
靖昌は樹木(特に巨木)を天と大地を繋ぐものとして考えていたらしい。
樹齢の多い巨木が実家の庭にもあったことも関係しているらしいが、
そもそも巨木というのは日本でも古来巨石などと共に信仰の対象となっている。
これは古来の風葬の風習とも無縁ではないだろうし(樹木は鳥の住処)、
また仏教伝来以降の火葬の文化においても、重要なものだったろう(竹取物語とか)。
靖昌の絵には終始一貫して、死(と生)への意識が感じられるが、
これは文芸も含めた日本の芸術の中では結構珍しいことではないかと思う。
一般に、日本の伝統的な死生観というものは、
記紀神話に描かれる「黄泉平坂」のような、死者と生者が共存する世界観と言える。
そこでは巨木や巨石のような、空間的平面的な境があって、
生者はその境を越えることを禁忌とされている。
対してキリスト教文化の影響を長年にわたって強く受けてきた西欧の死生観は、
どちらかというと時間的かつ立体的に境界が截然と決定されているような気がする。
物語を構築する上でもこうしたはっきりとした違いが分かれていて、
前者では絵巻物に見られる異時同図のような形が発展し、
後者では狭義の物語(ノヴェル)が発展したのではないかと思える。
洋の東西を問わず、物語というのは神話、
つまりは死者をどのように弔うのか、という死生観と無縁ではないと僕は思う。
戸嶋靖昌の絵は、そうした意味で物語の発生について、
またその仕組みの東西での違いについて、
色彩や画面の配置でもってせまったものだったのではないかと思える。
闇と光の同居のような、不可思議な印象は、
そういったところから生じて来ているように思える。