四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診察室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまずいた。咄嗟に、気にもとめず押しのけて、階段を降りた。しかし、通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない場所にいたという考えがふと浮び、引っ返して門番に注意した。ミッシェル老人の反発にぶつかって、自分の発見に異様なもののあることが一層はっきり感じられた。この鼠の存在は、彼にはただ奇妙に思われただけであるが、それが門番にとっては、まさに醜聞となるものであった。もっとも、門番の論旨ははっきりしたものであった──この建物には鼠はいないのである。医師が、二階の階段口に一匹、しかも多分死んだやつらしいのがいたといくら断言しても、ミッシェル氏の確信はびくともしなかった。この建物には鼠はいない。だからそいつは外からもってきたものに違いない。要するに、いたずらなのだ。
最近話題のA.カミュの『ペスト』(1947)の物語本編の書き出しはこのように始まる。
僕の手元にあるのは新潮文庫版、平成16年7月発行の65刷だから、
かれこれ15年ほど読んでいることになる。
それでもまだ全体の5分の1ほどしか読めていないのは偏に僕の怠慢によるものだが、
それにしてもふと考えざるを得ないのは、
読書とは何か、何の役に立つのか、ということである。
教養、と言い換えてもいい。
人々が今まさに生死のあわいをさ迷っているこの瞬間に、
本を読むこと、教養を追い求めることには、いったい何の意味があるのか。
20世紀フランスの哲学者でカミュとも交流のあったJ.P.サルトルは

飢えた子の前で『嘔吐』など何の意味もない

という有名な言葉を残しているが、
それならばサルトルはなぜ『嘔吐』を書かねばならなかったのか?と問いたくなる。

『読書について』という、そのものズバリのタイトルの本の中で、
ドイツの哲学者A.ショーペンハウアーは

読書は、他人にものを考えてもらうことである。

と書いている。
そのショーペンハウアーの少なからぬ影響下で自身の哲学を形成したF.ニーチェも、
同時代のアカデミズムの大家たちや文化人に「教養俗物」という罵声を浴びせている。
「俗物」という言葉が示すように、それは一種のスノビズムなのだ。

では読書あるいは教養といったものは何の意味もないのか、
現前のこの世界の状況に対して、まったく無力で虚しい営みなのかというと、
僕はそうは思わないし、
ショーペンハウアーもニーチェも、おそらくそうは思っていなかっただろう。
彼らが言いたかったことは結局、読書や知識や教養といったものが、
ある重要な目的のために行使されるべきものだということであり、
ショーペンハウアーであればそれは「世界への盲目的意志」ということになろうし、
ニーチェであれば「力への意志」がその目的とされるだろう。
ショーペンハウアーの哲学は「厭世哲学」とも言われ、
その悲観主義的なトーンは明らかに彼の同時代と呼応したものであっただろうが、
ニーチェも当初その影響下にありながら次第に脱していく。
その辺の過程はニーチェ自身の著作はもちろんだが、
例えば工藤綏夫の『人と思想 ニーチェ』や
M.オンフレの『ニーチェ──自由を求めた生涯』といった解説書や評伝を読んでも
理解できるだろう。
ニーチェにとって、
本を読むことを含めた教養や知識というのは、
まさに自分自身の生=生きることに役立てるためのものであった。
もちろん、そこには芸術も含まれる。
ニーチェ自身、優れた音楽家でもあったから、
最初は同時代の作曲家であるワーグナーに大きな期待も抱いていた。
しかし軈てワーグナーがバイエルン国王ルードヴィヒ2世の食客となり
『ニーベルングの指環』や『バルジファル』のような「通俗的」な作品を書くようになると、
俗物として彼を徹底的に批判し始めるようになる。
ニーチェにとっては、
古代ギリシア的な自由の精神こそが生の価値を最も高めるものだったからとされている。

14世紀、「黒死病」と呼ばれたペストと見られる病が大流行すると、
ヨーロッパではカトリック教会の権威が低下し、
ボッカッチョやペトラルカなどの人文主義者Humanistたちによって
古典古代(古代ギリシア・ローマ期のこと)の思想・文化の研究、再評価が行われ、
ルネサンスと呼ばれる潮流が広がっていく。
ルターなどの後年の宗教改革もその流れの中に位置付けられるが、
こうした人文主義(教養主義)=人間中心主義 Humanismを
より今日的な意味での「ヒューマニズム(世俗的ヒューマニズム)」に近づけたのは
おそらくピコ・デラ・ミランドラではなかったかと思う。
そういう意味ではニーチェもまたこうしたヒューマニズム=人間中心主義に連なる
哲学者であり、
後年彼の哲学がナチスに悪用されていく要素がその辺にもあるとは言えようが、
しかし一方でニーチェにはそうした方向に抗おうとする面があるのも事実だろう。
いずれにせよ、読書=教養とは人間の生をより高めるために行われるものであり、
知識は人間が現実の世界と対峙する上で、
Liberal Artsとして武器になるものでもある、と思われている。

しかし、20世紀の二つの大戦(特に第一次大戦)という出来事は、
こうした読書観、教養観、人間観を徹底的に破壊したのではないだろうか。
戦車、戦闘機、毒ガス、レーダー、そして原子力兵器といった当時の教養の粋は
まさに殲滅のために利用された。
旧ソ連で反体制作家として知られたA.ソルジェニーツィンは数学者でもあったが、
スターリンを批判した罪で強制労働収容所(ラーゲリ)に送られた彼は、
大戦末期にはシャラーシュカと呼ばれた特別収容所へ送られ、
比較的厚待遇を受けながら、おそらくは原子力技術開発のための計算に従事させられていた。
また不確定性原理発見と量子力学確立の基礎を築いた物理学者W.ハイゼンベルクは
ナチスによって、その意志に反して原爆開発に従事させられていたし、
日本でも武谷三男が似たような状況に置かれていた。
そして人文の知は、ニーチェがまさにそうであるように、政治によって恣意的に利用された。
日本においても、西田幾多郎などの京都学派が代表的な例だろう。

読むこと、知ること、教養をこのような袋小路へ追い込んだものはなんだろうか。
思うにそれは第一次大戦の危機から戦間期にもたらされることになった権力の有り様の変化、
具体的にはボルシェヴィズム、ファシズム、福祉国家という生権力だったのではないか。
政治が、ヒトのみならず知識=教養をも、生かすべきものとそうでないものを振り分け、
自らの、そして国家や社会の維持のために利用していく。
カミュが描き出すリウーという人物はまさにそうした教養の有り様を示しているようにも
見える。

では僕たちはどうすべきか。
読むこと、知ること、教養を、どのようにして、従来とは違った仕方で、
為すことができるのだろうか。
大江健三郎はかつてどこかで、危機の時には注意深く観察すべき、というようなことを
語っていたが、現在のような状況では観察するだけでは不十分だろう。
ひとつのヒントとなりそうなのは、カフカの次のような言葉だろう。

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか?きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか?やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。
(以下サイトよりの引用
http://www.mars.dti.ne.jp/~p900/index3.html)

「ぼくらの内の氷結した海を砕く斧」のような本。
それは極めて危険な読書でもあり、また、より他者性に開かれた読書である、
とも言えるだろう。
自らの生の内に安住することなく、
より「共同存在」(K.レーヴィット)としての、補完的存在としての自己を成立させる、
よい意味で不安定な生を支えるものとしての読書=教養。
言い換えればそれは読書の度に他者に「なる」変身の過程であり、
その過程をなぞる逃走線としての読書=教養である。

生権力、つまり管理社会においては、何一つ終わることがない、
とドゥルーズは書いていた。
実際僕らの生は既にあらゆるところで管理されている。
地域医療、生涯学習、マイナンバー、アクティヴ・ラーニング…
現在のようなウイルスの蔓延するような状況ではなおさらである。
読書=教養はそのような同一性、不変性を押し付けてくる生権力、
僕たち一人一人を捕獲して標本箱の上にピン止めしようとする政治に対する、
他の何者かへの変身を遂げさせ、逃走を企てるための、ひとつの手段である。

それでは今人々は、カミュの作品の中にどのような他者性を見出だし、
どのような逃走線を描くのだろう?
それはまだ、わからない。
けれども既に兆しは見えてきているような気はする。
彼の本を再び見つけることで、誰もが既に、
シャラーシュカの教養俗物であることを止めようとしているように、
僕には思える。