普段あまり書かないことを書こうと思う。
予め断っておくが、これは思想的観念的な話ではない。
あくまでも現実の、今現在の日本の政治の話である。

9年ほど前に仙台で罹災して以来、ずっと感じてることがある。
それは、

〈政府は肝心なときになにもしてくれない〉

、ということだ。
「なにもしてくれない」という言い方が癪に触るなら、
ロクなことをしてくれない、と言い換えてもいい。
どちらでも、僕にとっては同じことだ。

東日本大震災は言うまでもなく、
この国、この社会にとっても、そして僕自身にとっても、
忘れることのできない大きな出来事であっただろう。
その後に起きる原発事故と放射性物質の拡散も含めて、
個人はおろか政府もまた、
自然の、物理的唯物的な作用の前には何の力も持ち得なかった。
これはまあある意味当然のことだったろう。

問題はその後だった。
永田町や霞ヶ関やその周辺に群がる人たちは権力闘争や党派主義に明け暮れ、
少なくとも三陸沿岸の復興は遅々として進まなかった。
僕も当時、例えばこんな記事を書いたし、
その気持ちは現在でも変わっていないどころか、
民主党から安倍自民党に政権が代わってから、
寧ろその感を何倍にも強くしている。

先日はTwitterにこんなことを書いた。



Twitterではやや遠慮して「半国家」と書いたが、
実際にはこの国は無政府国家なのではないか?
ここでいう国家とは、言うまでもなく、近代的な国民国家のことだが、
日本ではそれを目指したはずの明治維新直後においてすら、
そんなものは一度として存在したためしがないとも思える。
戦争、公害、災害、地域経済開発、安全保障。
近代日本の政府は一度として国民国家の政府であったことがない。
ただ国民国家の政府を装うための意匠だけに
政治家たちは精力を傾けてきたように見える。
しかし、そうした誤魔化しは
最早通用しない事態にまでなってきているのではないか。

政府らしい政府がなく、
名ばかりの「政府」によってコミュニティは破壊され、
個々人はこのパンデミックや震災のような状況においてすら
自助=自己責任を強いられている。
このままでは社会は早晩砂漠になるだろう。

日本のような国、社会で、
政治の機能に期待できることは最早限られている。
現実の政治家や官僚機構の意識が変わる見込みが絶望的にないからだ。
しかし、コミュニティも破壊されつくし、
自然の脅威(パンデミック、震災e.t.c)に覆われたこの状況で、
自助=自己責任を叫ぶのは更に自己破壊的だろう。

学生だった15年ほど前に、僕は「新しい共同体の方へ」というテーマで、
何か一つ論文のようなものが書けないかと
個人的に構想していたことがあるが、
今僕らが出来ること、すべきことは、
恐らくそうした、
新しいコミュニティを作り上げていくことしかないのではないかと思っている。
震災や原発事故、パンデミックのような現実に直面しながらもなお、
毫も変わらぬこの国、社会を見ていると、そう思うしかないのだ。