少し前に、武田泰淳『富士』に関するある論文を読んで以来、
同書を少しずつ読んでるのだけれども、
同じく現在進行形で読んでる本に安部公房の『密会』があって、
タイトルはその『密会』の冒頭に掲げられたエピグラフ?の一文である。
さっき、Twitterで哲学者の最首悟さんのつぶやきを見かけて、
ふと連想した。

富士 (中公文庫)富士 (中公文庫)
1,512円
Amazon




書いたように、『密会』と『富士』には不思議な符合がある。
この符合がどこから来るのか、考えてみる。
弱者に「なる」とはどういうことか。
もちろんそれは文字通り、強者ではない、ということだ。
しかし同時に、弱者「である」ということでもない。
そこには強者でもなんでも、とにかく「弱者」ではない何者か、
非「弱者」の立場から「弱者」の立場への移行がある。
これはつまり出来事(「になる」)であり、存在(「である」)ではない。

日本では属性というものが屡々重んじられ、
ともすれば何者「である」かが問われがちである。
曰く、日本人「である」か中国人「である」かコリアン「である」か、
左翼「である」か右翼「である」かノンポリ「である」か中道「である」か、
リバタリアン「である」かコミュニタリアン「である」か、
フェミニスト「である」かミソジスト「である」か、
原発推進「である」か反原発「である」か、
既婚「である」か未婚「である」か、
長男「である」か次男「である」か、
新卒「である」か既卒「である」か、
陰性「である」か陽性「である」か、などなどなど。

それはおそらく、律令国家の成立とともに拡大された氏姓制度など、
天皇制のもとで維持されてきた様々な制度にもよるのだろうが、
こうした構造は互いの互いに対するスノビズムや覗き趣味を生み出し、
加速していく。
ネット空間における「炎上」=サイバーカスケードなどはその最たるものだろう。

こうした傾向はもちろん世界中に見られるものだろうが、
特に日本では顕著なように思われる。
そこには2001年に東浩紀が『動物化するポストモダン』でコジェーヴを援用しながら
分析していたようなことも多少は関係するだろう。
東の主張はともかく、安部公房も武田泰淳も、
こうした日本的なタコツボの状況からどうすれば抜け出せるのか、
模索した結果が『密会』や『富士』だったのではないかと思える。
つまりそれは「出来事の発見」と呼ぶべきものだろう

人々はマジョリティが抱く未来のことをつねに考えている。(中略)けれども、ここでの問題はマイノリティへの生成の問題なのだ。つまり、子供、狂人、女性、動物、吃り、外国人のふりをすることでもなければ、彼らをつくり出すことでも模倣することでもなく、そうしたものすべてを生成させ、新しい力を創出し、新しい武器を発明することが問題なのである。

C.パルネとの対話のなかで、ドゥルーズはまさにこう指摘している。

安部公房と武田泰淳がドゥルーズのこの指摘を知っていたかどうかはわからない。
だが、奇しくも二人の作家が作り出した人物は、ドゥルーズが言うような、
マイノリティへと生成する人物であったのだ。
さらに付け加えて言えば、ドゥルーズは文学の役割を、

 文学としての健康、エクリチュールとしての健康は、欠如している一つの民衆=人民(ピープル)を創り出すことに存する。

と書いていた。


武田泰淳と安部公房はまさしく、
欠如している一つの民衆を創り出したのだと言えないだろうか。