100分de名著シリーズ國分功一郎さんの『スピノザ エチカ』を読み終えた。
17世紀のオランダで活動した哲学者であるスピノザは、
いわゆる「汎神論」の主導者として知られている。
しかし彼のその「汎神論」とはいったいどういう考え方なのか、
例えば日本の「八百万の神」のような多神教と何が違うのか、
また「汎神論」は彼の哲学全体のなかでどういう役割を担っているのか、
さらには「汎神論」に象徴される彼の哲学は
彼の同時代にはどのような位置付けをなされ、
なおかつ現代ではどのような可能性が期待されるのかは、
一般にはほとんど知れ渡っていないように思える。
それは一つには実際に彼の哲学が難解だということもあるだろうが、
それ以上に本書で國分さんがまさに指摘するように、
スピノザの先行者であるデカルト(スピノザより36歳年長)以降の科学が辿ってきた歴史や
それに基づき今我々が「常識」としているような科学(真理)観とは決定的に違うものが
スピノザにはあるからだろう。
國分さんはこの点を
OS(オペレーションシステム;引用者注)が違う
と表現しているが、うまい表現だと思う。
スピノザが生きた17世紀という時代、
欧州はまだ各地で宗教戦争が盛んであり、
またスピノザのオランダに見られるように、
芽生え始めた自由主義的な空気と保守的な教会勢力との対立もあった。
実際スピノザも共感を寄せていた共和派の政治家が
保守派に煽動された民衆に虐殺されるという事件も起きている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88?wprov=sfla1
スピノザはこうした時代の中で独自の思考を育んでいった。
しかしその思想があまりに独創的でありすぎたために、
彼はユダヤ教会から破門されるだけでなくキリスト教勢力からも目をつけられることになる。
その結果、彼が生前に刊行できた著書はわずか2冊、
それも匿名で出した『神学・政治論』に至っては著者であることを突き止められた上
禁書の憂き目にあっている。
本書のテーマである『エチカ』も死後刊行された遺稿集の内のひとつである。
スピノザの思想が同時代の人々になぜここまで敵視異端視されたのかと言えば、
彼の所謂「汎神論」が当初は無神論と解されたからに他ならない。
実際彼の「汎神論」においては「神」の存在は殆ど名目的なものとなっていると言ってよい。
スピノザにおいては「神」という概念は宇宙とか自然とか言い換えても殆ど支障がない。
そういう意味では老子の言う「道」に少し似ているかもしれない。
本書ではそうしたスピノザの思想、中でも主著である『エチカ』について、
4つの切り口から解説することを試みている。
すなわち、善悪、本質、自由、真理、である。
スピノザにおける善悪の観念は一般に流布しているようなそれと比べれば、
少し独特なところがある。
一般に理解されているような善悪の観念というのは、
何か確固とした、
その気になれば誰もがそこにアクセスできるような「善/悪」というものがあって、
人々はそれに基づいて判断するし、またするべきだという風に理解されているように思える。
しかしスピノザにとって善ないし悪というのはあくまで相対的なもので、
それは「力(力能、能力)」という概念でもって説明される。
では「力」とは何かという疑問が生じてくるだろうが、これは大変難しい質問だろう。
スピノザは人間、
いや、それだけでなく、存在するあらゆるものの本質を「コナトゥス」として捉えていたという。
「コナトゥス」とは何かといえば、
存在するものがそれ自身としてそれ自身であり続けようとする性質、とでも言うべきか。
医学や生物学で「ホメオスタシス(恒常性)」という概念を学んだ人なら
この辺は理解しやすいかもしれない。
「コナトゥス」は直訳すれば「努力」と訳されるという。
スピノザが言う「力」とはつまり、ここへ向かっていく力のことに他ならない。
従ってスピノザにとっての善悪とはこの「力」を増大させたり削いだりするもののことを言う。
スピノザにとって善悪はこのように定義されるものである以上、
誰もに等しく適用されるような、
ある固定された価値観としての「善/悪」のようなものは存在しない。
何が善でありまた悪であるかは、個々のケースによって異なってくる。
栄養失調の人にとっては栄養を沢山摂ることは善だが、
糖尿病の人にとっては逆に悪である、というように。
自由についても、スピノザはまた同様に、「力」に基づいて考える。
スピノザにとって自由とは、与えられた様態の条件(例えば人間身体)のなかで、
その「力」を最大限に発揮できるような状態のことを自由と呼ぶ。
例えばバレリーナがその身体を存分に駆使して素晴らしい踊りを披露するようなとき、
それは自由だと言える。
身体ばかりではなく、人間精神についても同じことが言える。
作家が自らの思索や表現を余すところなく作品として創り上げるとき、
これもまた自由であるということだろう。
ここで注意しなければならないのは、
我々は与えられた条件の中での可能性というものを、
決して予め知っているわけではない、ということだろう。
國分さんはこの点を、スピノザを引きながらこう書いている。
私たちは「身体が何をなしうるか」を知らない……身体だけではありません。私の精神が何をなしうるかも私にはよくわ分かっていません。それを知ることは、私の精神や身体がより多くの仕方で刺激されるようになることにつながります。このことは教育の役割でもあるでしょう。
生まれたての赤ん坊は、まだ歩くこともできず、
当然、話すことも字を読むことも計算することもできない。
周囲の大人の歩く姿や発音を見聞きして初めてそれらができるようになる。
実際、生まれたときから離れに閉じ込められネグレクトにあっていた子どもが
小学生くらいの年齢になっても躄ることしかできていなかったという事例を、
大学の授業で聞いたことがある。
また、「自由意志」ということについても、スピノザは否定的である。
人間には確かに「意志」のようなものはあるが、
上のネグレクトの事例でもわかるように、
意志はそもそも何か外的な要因からの刺激、触発によって生じるようなものであり、
自発的に生じる意志というものは想像しがたい。
水が飲みたい、という意志は、喉の渇きという外的な要因に刺激されたものであり、
外的なものとの何かしらの因果関係が前提されていない限り、
人間には意志は生じ得ない。
これは「意志」を何よりも重視する現代人にとっては衝撃的で根本的な事態だろう。
以上のように、スピノザの哲学は、
現代社会を基礎づけているデカルト以降の近代科学の考え方とは
どこか根本的に異なっている。
こうした哲学から、では何が得られるのかといえば、
やはりデカルト以降の近代科学が見落としてきたもの、
國分さんの言葉を借りれば、
ありえたかもしれない、もうひとつの近代
の発見であり、近代以降の社会において問題となる様々な事象、
戦争、環境破壊、格差……といった諸々の事象を解決に導くための、
幾つかの大きなヒントが隠されているのではないかと思う。
残念ながら我々人間には時間を巻き戻すことはできないし、
デカルト以降の近代科学が我々人間にもたらしたものはあまりに多く、
そこから抜け出ることは最早誰にも出来ないだろう。
とはいえ、もうひとつの近代を覗き見ることによって、
そこから何か、我々の生きる世界に役立てられるものはきっと得られるはずであり、
スピノザの哲学、『エチカ』は、その主要な参照項となり得ると僕は思う。