連休を利用して宮城へ行ってきた。
北は南三陸から南は閖上まで。
改元の狂騒を逃れ、
被災地の今を見に、といえば聞こえはよいが、
実は単に美味しいもの目当てだったりする(笑)


まずは南三陸の海鮮丼。


本当はキラキラ丼目当てに行ったのだが、
時間的に間に合わず已む無く海鮮丼に変更。
とはいえこの海鮮丼も美味しかった。
特に、南三陸の名産品でもあるタコは歯応えもあって最高🐙

防災対策庁舎跡に手を合わせ、
この晩は仙台市内のホテルに泊まり、
翌日閖上へ。
南三陸でもそうだったが、
被災地は行く度に道路や建物の配置が変わっていて、
前にはなかった建物もあったりする。
少しずつ復興が進んでる、ということだろうが、
まだ先が見えるという感じではない気がする。

閖上朝市はお休みだったので、
メイプル館で昼食。
またしても海鮮丼ビックリマーク


撮り忘れて半分既に腹の中に収まってますが(^_^;)
日和山の慰霊碑を拝み、
近くに「かわまちてらす」という建物ができていたので
少し覗いてみる。
朝市も将来的にはこちらへ移転するんだろうか?という感じ。

閖上を出たあとはひたすら北上、
井土のほうへ行くと、海岸公園・馬術場という看板が見えたので行ってみる。



ビックリマーク🏇

実はこの辺は震災直後からちょっと気になっていた場所で、
僕はこういう記事も書いている(まだですます調で書いてた頃で少し恥ずかしいw)。

マックイーンとおぼしき馬は見当たらなかったが、
子どもたちが馬を見て喜んでいる姿を見るのは少し安心すると共に、
この安心な時間が末永く続いてくれることを祈っていた。

馬術場周辺はこんな景色。




さながらタルコフスキーの『サクリファイス』のような
極めて黙示録的としかいいようのない風景だが、
この辺一帯は津波の浸水で住居等の建設が規制されている区域なので、
必然的にこうした景色になってしまうのだろう。

井土からさらに北上(といってもほぼ隣だが)、仙台市荒浜へ。
調べてみると以前来たのは2012年だから、ほぼ7年ぶり。
荒浜小学校も震災遺構として整備されていて、
規制のために周囲に目新しい建物はないとはいえ、
津波が遺していった体育館や住宅の基礎や壁の残骸などが残っていた7年前とは
だいぶ違う印象だった。

その、荒浜小学校。


震災当時、ここには320人の児童、教職員、地元住民が避難して助かったそうだ。
が、建物2階まで押し寄せた津波の威力のあとは凄まじく、
1階昇降口の天井は下から押し上げられて大きく歪んでいた。
(校内の様子などは仙台市のHPで↓

その昇降口の前にあった青いガラス?製の閉校記念碑には校歌が。


校内にも、過去に卒業生が贈った木製タイルで作った歌詞碑が。



みそらにつづくうなばらの
よせくるしおに身をきたえ
強く明るい心もて
学びの道にいそしまん

2番のこの歌詞が非常に印象に残った。
月並みかもしれないが。

2011年3月11日午後2時46分18秒、あのとき、
確かに僕もこの街にいた。
そしてこの場所で寒く悲しく不安な数夜を過ごした人々とともに、
あの時のあの空気を吸っていた。
それを想うと、ものすごくしんどかった。

荒浜の人たちは強い。
本来であれば、忘れたくてしょうがないであろう記憶を、
一身に背負いこんで次代に伝えようとしている。
荒浜だけではない。
南三陸も、閖上も、気仙沼も、石巻も、陸前高田の人たちも、
忘れたいことを懸命に話してくれている。
しおに鍛えられた強い心で。

「忘れたいことを、話してくれてありがとう」

震災遺構については、被災者の間でももちろん是非がある。
だが今僕が言いたいのはそんな表面的なことではない。
目に見える物を残すかどうかということではなく、
それにまつわる記憶を恐れず伝えようとする人たちがいる。
年号がどうのとか憲法がどうのとかよりも、
こうした声の方がよほど聞く価値があると僕は思うし、
現実というのはこういう声に耳を傾けることでしか変わるものではない、
と僕は思う。

東日本大震災で犠牲になられた方々に改めて追悼の意を表したい。