手塚治虫の『どろろ』を読んだ。
妻夫木聡と柴咲コウ主演の映画のほうは随分前に見ていたが、
原作漫画はやはり手塚作品だけあって、
結末は未完に近い感じはあるものの、重厚な作品だった。
舞台は戦国時代、
武将の醍醐景光は戦に勝つために48の魔物と取引をし、
まだ母親の腹の中にいた自らの子どもの体を魔物たちに捧げる。
産まれた子どもは手足もなければ目鼻耳口のない「蛭子」であり、
景光はたらいに入れて川に流してしまう。
幸運にも医者に助けられたその子は義眼義手義足と一振りの刀を与えられ、
刀の銘から「百鬼丸」と名付けられるが、
長じて、妖怪に襲われ瀕死の医者から自分の出生の秘密を聞くに及んで
自分の体を取り戻すために妖怪退治の旅に出る。
タイトルの『どろろ』とは、
この作品の主人公?、
ある秘密を抱えた天涯孤独な子どもの泥棒の通称である。
どろろは妖怪退治の途上にあった百鬼丸と出会い、
その刀目当てに旅の道連れとなるが、
作品のタイトルはなぜかこのちょっと脇役的な『どろろ』である。
この作品を読む上ではまずここに引っ掛からないといけないように思う。
前述の通り、百鬼丸はいわば障がい者である。
その意味ではこれは
障がい者が苦労と努力を重ねて成果を手にするといった、
あの24時間テレビ的な「感動ポルノ」を連想させる。
しかし、この作品は決してそんなものにはなっていない。
それは結局、欲望の象徴としての妖怪に対して、
百鬼丸自身が常に動揺する存在であるからだろう。
醍醐景光をはじめとして、
この作品に出てくるあらゆるものは妖怪=欲望に囚われている。
それはともすれば動物や石木といった無機物にまで及ぶ。
世界を包み込むかのようなこうした欲望に、
百鬼丸自身が時として蜉蝣のように引き込まれる。
しかしそこで踏みとどまるのはいつもどろろの存在があるからである。
どろろはいつも「動物的」である。
彼は何かを(例えば天下を)積極的に欲するということがない。
それが百鬼丸に対する歯止めになっている。
だからこそこの作品のタイトルは『どろろ』なのだ。
現実には、障がいを持つものも持たないものも、欲望を持つ。
というより、人は生まれるとともに欲望の坩堝の中に投げ込まれる。
そして洗濯槽に投げ込まれた洗濯物のように、
その中で振り回される。
人そのものが欲望の組み合わせの中で生きている。
妖怪とはまさしくその象徴だろう。
そして妖怪に振り回される者はいつも多くを望んでしまう。
富、権力、名声…。
そうしたものへの執着の中から、憎悪や差別や対立が生まれる。
憎悪、差別、対立は次なる、更なる憎悪、差別、対立を生む。
悪循環である。
悪循環を避けるには、やはりどろろ的な生き方が一番いいように思う。
それは同時に、ただ生き切ることだけを目的とした、
真に民衆的な生き方に他ならない。