東京工業大学名誉教授の大隅良典さんが
今年度のノーベル生理学・医学賞に決まり、
一昨日からメディアはこの話題で持ちきりである。
ここ数年、生理学・医学や物理学、化学など、
理系分野ではほとんど毎年のように日本人研究者の受賞が報じられ、
日本人研究者の基礎研究のレベルの高さがうかがえる。
ノーベル賞を獲ることが何よりもすごいことだとは僕は別に思わないが
少なくともその学問分野の振興の度合いを測る
一つの目安になっていることは確かだろう。
受賞決定後の会見の中で大隈さんは、
小中学生へ向けたメッセージとして、
「アレっ?」という気付きを大切にしてほしいという趣旨のことを仰っていた。
他人と違った見方や独創的な切り口というものが
益々難しくなってる世の中だが、
そうした気付きを大切にすることでより高度の基礎研究へと繋がっていくと
指摘したうえで、
基礎研究を軽視しがちな日本の政治や企業への苦言を呈している。
言い換えればこれは着眼点や問いの立て方を
それまでとは違った風にする、ということでもあって、
そこにはM.フーコーが
哲学の活動という意味での哲学が、思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日哲学とは一体何なのか?自分が既に知っていることを正当化する代わりに別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何なのか?(『快楽の活用』)
と投げ掛けた意味での哲学がある。
翻って文系分野はというと、
1994年に作家の大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞して以来、
日本人はその栄誉から随分遠ざかっている。
日本でノーベル文学賞と言えば毎年話題になるのがハルキ・ムラカミだが、
村上さんの小説がその価値を持つかどうかはとりあえず措くとして、
ノーベル文学賞は別に小説や詩のみが受賞対象なわけでなく、
過去にはベルクソンやサルトルといった哲学者たちや、
英国の元首相チャーチルなども受賞対象となっていることを考えれば、
もっといろんな名前が出てもいいようにも思うが、
実際にはそうはなっていない。
日本人がノーベル文学賞からこれほど遠ざかっていることの理由は、
一つにはおそらく言語的な冒険の少なさがあるのだろうと思う。
日本の小説や詩の分野においてはどうしても内容的なものが重視され、
世に流通するもののほとんどは娯楽作品や政治的マニフェスト(左右ともに)、
社会分析的なものにとどまっていて、
そうしたものとは異なる「異見」を排除する傾向にあると思う。
そうした傾向は社会や政治の様々な局面にもよく表れていて、
特に政治においてはこの何十年かの政情不安、政治不信の、
最も大きな原因となっていると思う(安倍政権がいい例だろう)。
言語について考えることはその国、地域の社会や政治について
考えることでもある。
なぜなら社会や政治の根幹となっているのは、
言語の無意識的な構造を作り上げているものと本質的には同じだからだ。
それは言語の非言語的側面と言い換えてもいい。
川端康成のノーベル文学賞受賞以降、
日本でこうした部分に最も深く切り込んでいったのは
やはり安部公房であったように思う。
良い意味で荒唐無稽な彼の作品こそは、
一級の娯楽であると同時に非常に高度な実験でもあった。
また川端も、ある意味では日本人離れした「日本らしさ」を持ち、
作品の中に過剰に詰め込んでいたからこそ受賞できたとも言える。
それは日本社会の中の通常の文脈から見れば、
明らかに「異見」だったと言えるだろう。
そうした「異見」、
大隈さんの言葉を借りるなら「アレっ?という気付き」(言語的な)が
あったからこそ、
彼らは受賞者や最有力候補として名前を挙げられたのだと思う。
小説や詩の分野だけにとどまらず、
また、プロであるかアマであるかを問わず、
今ではそうした「哲学」を感じさせるものが非常に少なくなってしまった。
村上さんがこれから数年内にノーベル賞をとるかどうかはわからないが、
そうした日本社会を見るとき、
僕は果てしなく絶望的な気分になる。