すでにニュースなどでご存知の方は多いだろうが、

今日未明、神奈川県相模原市の障碍者施設で

極めて悲惨で痛ましい事件が起きてしまった。

 

http://www.cnn.co.jp/world/35086439.html?tag=top;topStories

 

容疑者に対しては強い憤りの念しか覚えないが、

そうした感情的なものはいったん措くとして、

ここでは事件の背景となったであろう

日本の重度障碍者をめぐる現状について、

僕の乏しい経験を元に少し書いてみたいと思う。

 

僕は一昨年まで5年余りにわたって、

今回事件が起こったような施設と同様の

重度障碍者の入所施設で働いていた。

「津久井やまゆり園」とは規模や利用者の年齢構成こそ違えど、

数十人の利用者さんたちを相手に昼夜問わず

その生活を支援することは中々ハードでもあったが、

同時にやりがいのある仕事だったと今でも思っている。

 

しかしそうした障碍者の方々を支援する上で

常に大きなハードルとなっていたのは、

やはり重度障碍者に対する周囲の理解度の低さだろう。

重い自閉症(自閉スペクトラム障害:ASD)等から来る

強度行動障害(物事に異常に拘る傾向)を抱える彼らは、

就労はもとより施設を離れ地域社会で生活することが難しく、

また人によっては家族等から疎外されていたりもするため、

施設の専門的な支援の下で生活せざるを得ない。

近年は障害者虐待防止法などの法整備により

施設の開放性も向上してきたが、

逆に開放性が向上したことにより、

自ら危険を予知し回避することが難しいこうした障碍者の

生命・身体の危険につながる可能性も高くなってきた。

 

僕がいた施設でもそうだったが、

こういった施設では昼夜を問わず利用者の「飛出し」が多い。

利用者が衝動的あるいは遊びで施設の外へ飛び出す行為で、

施設周囲に道路などがある場合非常に危険で、

夜間はそのため人感センサーをつけていることが多い

(やまゆり園は居住棟周辺にはつけていなかったようだが)。

しかしだいたいは利用者の動きを把握するためのものであり、

外からの侵入者を感知するものとしての役割性は低い。

僕も前にいた施設では何度か

敷地内への不審者の侵入の報告を聴いている

(幸い何事もなかったが)。

今回のやまゆり園の事件はまさにこの危険性が

最悪の形で露見したといえるだろう。

 

「閉じ込め」などの虐待行為は勿論あってはならないし、

防止すべきだろう。

しかしその一方で、

現在の法制度は障碍者を「障碍者」として一律にみなし、

特に身体障碍者や軽・中度の知的障碍者を基準にして

設計されており、

多様な障碍の実態にそぐわない面があることは否定できないと思う。

もっと障碍の実態にあわせた多様な制度設計を考えていかないと、

今後もこういった危険性は残り続けるだろう。

 

ところで、一部報道によると、

今回の事件の容疑者は警察での供述で、

「障碍者は安楽死させるべき」というような話をしているという。

もちろんまったく同意できないし、するつもりもないが、

同意するかどうかは別として、そう考えたくなる気持ち(動機)は、

一度でも重度障碍者の支援に関わったことのあるものならば、

恐らく理解できなくはないんじゃないかと思う。

実際働くこともできず支援者の介助無しでは自由に動き回ることも

できない彼らは、

はた目には「かわいそう」な存在に見えるかもしれない。

 

しかし、彼ら自身がじゃあ生きることを悲観しているのかと言えば、

僕はそんなことはないだろうと思う。

生物としてのヒトはもともと生きようとする本能を持っているものだし、

障碍を抱える分、より本能に忠実な彼らであればこそ、

生きたいと思っているだろう。

それを短絡的に「安楽死」に結びつけようとするのは

「健康」な者のエゴであり自己投影でしかないと僕は思う。

つまり自己の病んだ姿を重度障碍者たちに重ねているのだ。

 

むしろ「健康」な僕らが彼らに対して行うべきことは、

彼らの命そのものを「お祝い」すること、

「ぬちぬぐすーじさびら!(命のお祝いをしよう!)」と言って、

彼らがこの世に生まれてきたこと自体をお祝いすることこそが、

彼らと僕らの間に拡がる不平等の溝を少しでも埋めるために、

僕らが唯一為し得ることであると、僕は思う。

 

今回の事件で不幸にも犠牲になられた方々のご冥福と、

怪我をされた方々の一刻も早い恢復を心から願って。

 

                                      槐