久しぶりにTVの話題を。

Eテレで、昨年、

優れたTV番組に与えられる日本賞グランプリを受賞したという、

オランダ制作の表題ドキュメンタリー番組を観た。

 

君の心の“ブラックピーター”

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2473/2568022/index.html

 

オランダのクリスマスの伝統行事「ブラックピーター」。

サンタクロースのモデルでもある聖二クラスの従者として、

多くのオランダ人たちに親しまれ、仮装される存在だが、

顔を黒塗りにし、おどけながら子どもにお菓子を配って歩くふるまいが、

黒人への人種差別ではないかという声が上がり、

ついには裁判にまでなるなど、

オランダ社会を二分する問題となっていく様子を捕えている。

 

差別や偏見は、通常人々が予想する以上に、

僕らの深いところから生じている。

最近話題のシリア難民やイスラーム系移民への差別にしても、

黒人差別にしても、

あるいは欧米では1000年以上続くユダヤ人やロマへの差別にしても、

王制の崩壊や共和制の導入、あるいは社会主義革命を経てもなお

根強く残っているのは、つまり、

そうした差別や偏見といったものが本来的に、

僕ら一人一人の精神の成り立ちに深く関係しているからだろう。

 

人は誰でも、

その所属する社会集団の社会的文化的制約を免れることができない。

いくら「性別や肌の色は関係ない」と言ったところで、

あるいは「人間は生れながらに自由だ」と言ったところで、

実際に差別や偏見は存在しており、

それによって学歴や収入等に格差が生まれてるのが事実である以上、

誰もがそれを認めざるを得ないのが現状だろう。

そうした差別や偏見が、表面的な差別を否定する言動とは裏腹に、

より人間の無意識の深いところから生じているのだとすれば、

もはや解消するのは絶望的に不可能だとすら思えてくるかもしれない。

 

しかし、人間は同時に、

個々人のレベルで見れば「自由な存在」であるのも確かなことだ。

一人一人が差別の当事者であり、

いかなる差別反対論者であってさえも、

自分が差別主義者かもしれないという当事者意識を持つことによって、

少しはこうした状況が改善されるのではないかと思う。

 

差別に反対するだけでなく、より重要なことは差別をなくすことであろうし、

そうである以上、

僕たち一人一人が、自分の言動により注意を払うことによって、

差別は初めて解消していくのではないかと思う。