原一男監督のドキュメンタリー映画『全身小説家』を観た。

全身小説家 [DVD]/ディメンション

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埴谷雄嵩、大岡昇平、野間宏らと並んで、
戦後派文学の旗手とされた作家・井上光晴。
その晩年の5年間を追った密着ドキュメンタリー。

文学に命を懸け、創作や講演の傍ら、
故郷・長崎を始め全国に「文学伝習所」を創り、
多くの弟子を育てた井上。
埴谷雄嵩をして「全身小説家」と呼ばしめ、
自らの年譜すらもフィクションにし、
幼い頃は祖母から「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたという。
一時は女性関係にもあった友人の瀬戸内寂聴さんは井上本人から、
「嘘をつかなければ生きて来られなかった」
という言を聴いたと証言する。
戦前から戦後、そして今に至るまで、
そのようにしなければ生きて来られない人間というのは、
決して少なくはないだろうと思う。

人間というものはよく嘘をつく。
それが意図的な場合もあればそうでない場合もあるにせよ、
とにかく嘘は人間からは切り離せないものだろう。
一方で「嘘も方便」という言葉もあるとおり、
嘘は決して悪い面ばかりを持っているわけではない。
時として嘘こそが人間を死地から救う場合もあるだろう。
その意味で、嘘は状況や使い方によって毒にも薬にもなる。

嘘=フィクションはまた、「物語」とも呼ばれる。
人は嘘をつくことによって自らの物語を創り、
その物語を記憶として生きていく。
人間の記憶の曖昧さ、不確実さはかねてから指摘されてる通りだが、
物語にはどれ一つとして「正しい」と言えるものはない。
物語がもし行き詰れば、それを革(あらた)に書き換え、
別の物語を生きるだけだ。

国家や社会の場合もまた、そうだろう。
戦争や炭鉱の閉山(エネルギー問題)という大きな歴史を
身を持って体験した井上はだからこそ、
自らの(そして多くの名もなき人々の)物語を革に書き換え、
それまでと違う「イストワール histoire(仏;歴史、物語)」を
創り出そうとしたとも言える
(ただ、国家や社会の歴史の場合、個人の物語とは違い、
個々人の物語を総合して公約数を出すことで、
出来事の確実性をある程度担保できるという違いはあるが)。

井上光晴の文学は、少なくとも今日のメディアでは、
大岡昇平や野間宏ほどは注目されていないように思える。
かく言う僕にしても、彼の作品は一つも読んだことがない。
だが、多くの人々が生きづらさに直面し、
時代が右へ右へと舵を切っているように見える今だからこそ、
彼の文学の必要性は弥増してきているのかもしれない。
そして彼が「文学伝習所」を通じて語り続けたように、
それぞれの物語を革に書き紡いでいく必要があるのかもしれない。