井上剛監督による表題作を観て来た。
LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版
http://www.livelovesing-movie.com/
元々は昨年の3月10日にNHKで全国放送されたものだが、
その後、26分の尺を追加し福島・兵庫限定で放送された全長版を
更に再編集したもの。
監督の井上さんは同じくNHKで放映された
『その街のこども』や『あまちゃん』の監督(演出)であり、
脚本は『ラジオ』を手掛けた一色伸幸さん、
音楽は福島出身で『あまちゃん』を手掛けた大友良英さんと
Sachiko Mさん。
震災と原発事故の影響で
福島県の架空の町・富波町から母の実家である神戸へと
避難してきた水島朝海。
高校生となり合唱部に所属する彼女だったが、
上級生の卒業が迫ってきたある日、
恋人でもある顧問の教師・岡里の提案で、
お別れ会で『しあわせ運べるように』を歌うことになる。
それは20年前の阪神淡路大震災をきっかけに生まれた
神戸の被災者たちのための歌だったが、
歌詞を読んだ朝海は違和感を覚え、
「富波町の被害は、神戸みたいにチャラくない!」と拒む。
部活をサボり、制服を私服に着替えて駅へと向かう朝海。
そこで待っていたのは岡里の見知らぬ若い男だった。
尾行していた岡里は堪らず朝海を止めるが、
朝海は言うことを聴かず男と電車に乗りこむ。
朝海のことが気がかりな岡里も一緒に電車に乗りこむが、
電車は東へ東へと向かい、横浜から福島へと辿り着く。
それぞれの場所でさらに2人の人物が加わり、
ようやく開いた朝海の口から岡里は
謎の3人が朝海の小学校の同級生であり、
4人で校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こしに行くのだ
ということを聴かされる。
しかし、その小学校がある富波町は、
未だ避難指示解除準備地域として立ち入りが制限されている場所だった。
当たり前の話だが、人にはそれぞれの生き方、生活があり、
一個一個が似通ってるようで、全く違っている。
平時はそんなことは、何事もなく当然のように過ごし、
特に気に留めることもない。
しかし、いったん災害や戦争のような有事になると、
それは途端にそれぞれの<顔>として正体を現す。
トルストイは長編『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、
幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、
不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである
と書いて見せたが、
不幸のおもむきが異なっているのは何も家庭だけではなく、
個々人においてもそうなのではないだろうか。
その意味で、不幸は百面相どころか千、万、億の顔を持っている。
東日本大震災は、そのような不幸の本質を露わにした。
ここに描かれる登場人物たちは、
誰一人として、<同じ>不幸を背負ってはいない。
一口に「被災者」「原発避難民」とは括られても、
また、部外者の目にはそのようにしか見えないとしても、
それはどれ一つとして同じではなく、
被害(物理的、精神的)はまさに千差万別である。
それは絶対的に比較のできないもので、
言い換えれば究極の〈他者〉、絶対的な〈他者〉とも言える。
震災や戦災といった有事は、
まさにこうした「絶対的な〈他者〉」がその見えない姿を現す、
一種の裂け目ではないかと思う。
しかし、そうしてできた裂け目も、
のど元過ぎれば一過性のものとして忘れ去られ、
鴎外の短編ではないが、恰も何もなかった「かのように」、
人々は元の「日常」と思われるものへと戻ってゆく。
だが、人々が「日常」と思っているものこそが夢であり幻想であり、
裂け目こそが真実ではないと、誰が言えるだろうか。
僕たちはまさに「つもり」の上に暮らしているのだ。
劇中、二階堂和美さんが歌う『GIGつもり』の歌詞は、
そうした虚実の皮膜をよく言い表している。
あなたのつもりと私のつもりの
掛け算引き算足し算割り算
自分じゃ正しく生きてるつもり
放射能はないつもり
爆発なんてないつもり
強い絆があるつもり
だから心配ないつもり
(中略)
311はなかったつもり
地震も津波もないつもり
日本は一つであるつもり
それで安心なつもり
地球はつもりで回っている
みんなはつもりで歩いてく
そういうつもりで眺めてみれば
僕らはみんな生きている
あの震災から、世間はまもなく5年を迎える。
5年という年月が長かったのか短かったのか、
正直僕にはよくわからない。
しかし、確実に言えるのは、この5年の間、
僕たち日本人はこの裂け目を、
充分には直視して来なかっただろうということだ。
震災や原発ということだけではなしに、
この5年の日本という国、社会を振り返って見れば、
普天間・辺野古を含めた安全保障の問題にしても、
社会保障の問題にしても、
あるいはずっと以前からある弱者への差別・偏見の問題にしても、
(絶対的な)<他者>の不在ということが言えるような気がする。
<他者>が存在しない以上、
<他者>への想像力など働きようがないのも当然だろう。
誰もが「自分じゃ正しく生きてるつもり」でいながら、
それがあくまで「つもり」でしかないという肝心な点を忘れ、
自分の主義主張のために<他者>を利用することだけをしか
考えていないように見えるのは僕だけだろうか。
きっと今この社会に必要なのは、
震災直後に詩人の吉増剛三さんがいみじくも指摘したように、
聞こえるcotes乃"s(巣)〟=ム、音に、耳を澄ます
こと、
僕なりに言い換えれば、無銘の言葉の響き、無銘の記憶の声に、
絶対的な<他者>の沈黙に耳を傾け続けること、
自分の主義主張はいったん脇へ置いて、
純粋に<他者>の沈黙の残響から何かを紡ぎ上げること、
そういう営みではないかと思うし、
この作品は改めてそういったことを確めさせてくれたように思う。
LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版
http://www.livelovesing-movie.com/
元々は昨年の3月10日にNHKで全国放送されたものだが、
その後、26分の尺を追加し福島・兵庫限定で放送された全長版を
更に再編集したもの。
監督の井上さんは同じくNHKで放映された
『その街のこども』や『あまちゃん』の監督(演出)であり、
脚本は『ラジオ』を手掛けた一色伸幸さん、
音楽は福島出身で『あまちゃん』を手掛けた大友良英さんと
Sachiko Mさん。
震災と原発事故の影響で
福島県の架空の町・富波町から母の実家である神戸へと
避難してきた水島朝海。
高校生となり合唱部に所属する彼女だったが、
上級生の卒業が迫ってきたある日、
恋人でもある顧問の教師・岡里の提案で、
お別れ会で『しあわせ運べるように』を歌うことになる。
それは20年前の阪神淡路大震災をきっかけに生まれた
神戸の被災者たちのための歌だったが、
歌詞を読んだ朝海は違和感を覚え、
「富波町の被害は、神戸みたいにチャラくない!」と拒む。
部活をサボり、制服を私服に着替えて駅へと向かう朝海。
そこで待っていたのは岡里の見知らぬ若い男だった。
尾行していた岡里は堪らず朝海を止めるが、
朝海は言うことを聴かず男と電車に乗りこむ。
朝海のことが気がかりな岡里も一緒に電車に乗りこむが、
電車は東へ東へと向かい、横浜から福島へと辿り着く。
それぞれの場所でさらに2人の人物が加わり、
ようやく開いた朝海の口から岡里は
謎の3人が朝海の小学校の同級生であり、
4人で校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こしに行くのだ
ということを聴かされる。
しかし、その小学校がある富波町は、
未だ避難指示解除準備地域として立ち入りが制限されている場所だった。
当たり前の話だが、人にはそれぞれの生き方、生活があり、
一個一個が似通ってるようで、全く違っている。
平時はそんなことは、何事もなく当然のように過ごし、
特に気に留めることもない。
しかし、いったん災害や戦争のような有事になると、
それは途端にそれぞれの<顔>として正体を現す。
トルストイは長編『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、
幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、
不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである
と書いて見せたが、
不幸のおもむきが異なっているのは何も家庭だけではなく、
個々人においてもそうなのではないだろうか。
その意味で、不幸は百面相どころか千、万、億の顔を持っている。
東日本大震災は、そのような不幸の本質を露わにした。
ここに描かれる登場人物たちは、
誰一人として、<同じ>不幸を背負ってはいない。
一口に「被災者」「原発避難民」とは括られても、
また、部外者の目にはそのようにしか見えないとしても、
それはどれ一つとして同じではなく、
被害(物理的、精神的)はまさに千差万別である。
それは絶対的に比較のできないもので、
言い換えれば究極の〈他者〉、絶対的な〈他者〉とも言える。
震災や戦災といった有事は、
まさにこうした「絶対的な〈他者〉」がその見えない姿を現す、
一種の裂け目ではないかと思う。
しかし、そうしてできた裂け目も、
のど元過ぎれば一過性のものとして忘れ去られ、
鴎外の短編ではないが、恰も何もなかった「かのように」、
人々は元の「日常」と思われるものへと戻ってゆく。
だが、人々が「日常」と思っているものこそが夢であり幻想であり、
裂け目こそが真実ではないと、誰が言えるだろうか。
僕たちはまさに「つもり」の上に暮らしているのだ。
劇中、二階堂和美さんが歌う『GIGつもり』の歌詞は、
そうした虚実の皮膜をよく言い表している。
あなたのつもりと私のつもりの
掛け算引き算足し算割り算
自分じゃ正しく生きてるつもり
放射能はないつもり
爆発なんてないつもり
強い絆があるつもり
だから心配ないつもり
(中略)
311はなかったつもり
地震も津波もないつもり
日本は一つであるつもり
それで安心なつもり
地球はつもりで回っている
みんなはつもりで歩いてく
そういうつもりで眺めてみれば
僕らはみんな生きている
あの震災から、世間はまもなく5年を迎える。
5年という年月が長かったのか短かったのか、
正直僕にはよくわからない。
しかし、確実に言えるのは、この5年の間、
僕たち日本人はこの裂け目を、
充分には直視して来なかっただろうということだ。
震災や原発ということだけではなしに、
この5年の日本という国、社会を振り返って見れば、
普天間・辺野古を含めた安全保障の問題にしても、
社会保障の問題にしても、
あるいはずっと以前からある弱者への差別・偏見の問題にしても、
(絶対的な)<他者>の不在ということが言えるような気がする。
<他者>が存在しない以上、
<他者>への想像力など働きようがないのも当然だろう。
誰もが「自分じゃ正しく生きてるつもり」でいながら、
それがあくまで「つもり」でしかないという肝心な点を忘れ、
自分の主義主張のために<他者>を利用することだけをしか
考えていないように見えるのは僕だけだろうか。
きっと今この社会に必要なのは、
震災直後に詩人の吉増剛三さんがいみじくも指摘したように、
聞こえるcotes乃"s(巣)〟=ム、音に、耳を澄ます
こと、
僕なりに言い換えれば、無銘の言葉の響き、無銘の記憶の声に、
絶対的な<他者>の沈黙に耳を傾け続けること、
自分の主義主張はいったん脇へ置いて、
純粋に<他者>の沈黙の残響から何かを紡ぎ上げること、
そういう営みではないかと思うし、
この作品は改めてそういったことを確めさせてくれたように思う。