高田渡さんの自伝的エッセイ
『バーボン・ストリート・ブルース』を読み終えた。
『バーボン・ストリート・ブルース』を読み終えた。
- バーボン・ストリート・ブルース (ちくま文庫)/筑摩書房

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渡さんが亡くなって、今年で10年になる。
ウディ・ガスリーやピート・シーガーといった
1930年代アメリカのフォーク、カントリー・ウエスタンだけでなく、
添田唖蝉坊など明治大正期の演歌師にも音楽的ルーツを持つという
その音楽的経歴は、
60年代のフォークシンガーたちの中でもかなり異色なものだったろう。
極貧の父子家庭で育ち、文選工や新聞配達をしながら、
山之口貘や金子光晴、谷川俊太郎、菅原克己といった
現代詩人たちの詩に曲をつけ、
日常的な風景を歌いながら
同時にそれが一種の社会批判にもなっているような独特のスタイルは、
まさしく渡さんでなければできなかったと思う。
僕がそんな渡さんの歌と出会ったのは彼が亡くなるちょっと前、
車の免許をとるために地元と仙台を行き来していた頃、
行き帰りの度に父親が車の中でかけていたCDを聴いていたのが
最初だったと思う。
ちょっととぼけた、それでいて妙に深い歌詞と、
音程もリズムもまるで無視したかのような歌唱スタイルがツボにはまり、
すぐにCDをレンタルして聞いた。
それからまもなくしてタナダユキ監督のドキュメンタリー映画
『タカダワタル的』が出たり、NHKで番組が放送されたりして、
渡さんに世間の注目が再び集まりだすのにつれて、
ライヴの途中で飲み潰れて眠ってしまったりなど、
そのパンクといってもいいような姿勢に惚れ込んだ。
彼の訃報が飛び込んだのはそんな頃だった。
以来10年間、日本は高田渡という稀有なシンガーを喪い続けている。
今の日本はまさに、
年がら年中飲んだくれて、
ステージではとぼけたような感じでさらっと毒舌を吐いて見せる
彼のような存在が必要だと思う。
渡さんのような、いい意味でのいい加減さ、ダメさってのが、
決定的に欠けてると思う。
渡さん、一晩でいいから、天国から戻ってきてくれないかな。。