宮城県美術館で開催中の
「生誕200年 ミレー展 ―愛しきものたちへのまなざし―」を観てきた。
宮城県美術館
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20141101-s01-01.html
今年はいろんな記念の年で、
ナポレオンのエルバ島追放からは200年、
第1次大戦勃発からは100年だし、
『ムーミン』の作者トーベ・ヤンソンも生誕100年、
『紀ノ川』や『恍惚の人』で知られた作家・有吉佐和子は
没後30年だそうだ。
日本では没後間もない明治半ば頃から紹介され
「農民画」家として知られるジャン=フランソワ・ミレーだが、
実際には自画像や肖像画、裸婦像、
環境問題を意識した風景画(人物含む)など描く対象は多岐に亘り、
19世紀仏ではドラクロワに次ぐ総合的な画家といっていいそうだ。
ミレーに限らず、また、フランスだけの話でもなく、
19世紀という時代は、多くの人々にとって、
ある意味非常に生きにくい側面を持った時代だったと思う。
その様子はほぼ同時代を生きた文豪フローベールの小説や、
あるいはミレーとも面識のあったH.ドーミエの絵、
さらにはロートレックの頽廃的なポスターや
コナン・ドイルのホームズものに描かれた市民の姿などにも
垣間見えると思うが、
その傾向は、特にフランスの場合、世紀のほぼ半ば、
1848年の2月革命以降の激動の中で
強くなっていったんじゃないかと思う。
1848年という年は「諸国民の春」とも呼ばれ、
今日ある国民国家の礎が築かれた年でもある。
ナポレオンのヨーロッパ遠征の後、
その支配に反発したヨーロッパ各国は戦争の末、
彼をエルバ島に流し、
オーストリア外相メッテルニヒを中心としたウィーン会議で
フランス革命以前の体制(王政)に戻すことを決定すると、
自由主義者・共和主義者を徹底的に弾圧した。
フランスでは1830年に市民層が担った7月革命が起き、
ブルボン朝のルイ18世に代わって
「株屋の王」と呼ばれたルイ・フィリップが王位につくが、
民衆はその政治に飽き足らず、ついに1848年、
2月革命を起こし、王政を廃止、第2共和制を打ち立てる
(ちなみにこの時期を舞台に貧しい人々の姿を描いたのが
かの有名な『レ・ミゼラブル』)。
しかし、そうして打ち立てられた共和制も、
同じ年の6月蜂起を境に市民(富裕層)に実権を握られ反動化、
ユーゴーを始めとした多くの共和主義者たちが
監獄行か亡命を余儀なくされていった。
ミレーもまたこうした時代の激動からは逃れられず、
ノルマンディーの海辺の寒村で生まれ育った彼は、
シェルブールやパリといった街に出て修業し、
歴史画や肖像画で
サロン(官展)への落選と入選を繰り返しながら、
極貧の生活の中で妻を亡くすなどの苦難に耐え忍ぶが、
やがてパリを革命の混乱とペストが襲い、
パリから南へ60キロほど行ったところにある
フォンテーヌブローの森のはずれ、
バルビゾン村への移住を余儀なくされる。
そこで労働する農民を主題とした絵を描き始めるが、
これが革命政府に認められて買い上げられ、
一転それなりに安定した暮らしができるようになる。
経済的に余裕のできたミレーは
相変わらずバルビゾンでの生活を続ける傍ら、
久しぶりに故郷へ帰ったり(一家は離散寸前だった)、
パリにでて知り合いの画家や
絵を買ってくれる革命政府の要人と会うなどしてるが、
1870年、今度は普仏戦争が起り、
シェルブールへ疎開している。
そして1875年、バルビゾンで死去。
以前読んだ評論家・柄谷行人さんの本に、
今日の世界的な問題の基本的な部分は
既に1848年までには用意されていたということが書かれてたが、
ミレーの生涯やその生きた時代を見ると、
まさしくその通りだと実感する。
「生誕200年 ミレー展 ―愛しきものたちへのまなざし―」を観てきた。
宮城県美術館
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20141101-s01-01.html
今年はいろんな記念の年で、
ナポレオンのエルバ島追放からは200年、
第1次大戦勃発からは100年だし、
『ムーミン』の作者トーベ・ヤンソンも生誕100年、
『紀ノ川』や『恍惚の人』で知られた作家・有吉佐和子は
没後30年だそうだ。
日本では没後間もない明治半ば頃から紹介され
「農民画」家として知られるジャン=フランソワ・ミレーだが、
実際には自画像や肖像画、裸婦像、
環境問題を意識した風景画(人物含む)など描く対象は多岐に亘り、
19世紀仏ではドラクロワに次ぐ総合的な画家といっていいそうだ。
ミレーに限らず、また、フランスだけの話でもなく、
19世紀という時代は、多くの人々にとって、
ある意味非常に生きにくい側面を持った時代だったと思う。
その様子はほぼ同時代を生きた文豪フローベールの小説や、
あるいはミレーとも面識のあったH.ドーミエの絵、
さらにはロートレックの頽廃的なポスターや
コナン・ドイルのホームズものに描かれた市民の姿などにも
垣間見えると思うが、
その傾向は、特にフランスの場合、世紀のほぼ半ば、
1848年の2月革命以降の激動の中で
強くなっていったんじゃないかと思う。
1848年という年は「諸国民の春」とも呼ばれ、
今日ある国民国家の礎が築かれた年でもある。
ナポレオンのヨーロッパ遠征の後、
その支配に反発したヨーロッパ各国は戦争の末、
彼をエルバ島に流し、
オーストリア外相メッテルニヒを中心としたウィーン会議で
フランス革命以前の体制(王政)に戻すことを決定すると、
自由主義者・共和主義者を徹底的に弾圧した。
フランスでは1830年に市民層が担った7月革命が起き、
ブルボン朝のルイ18世に代わって
「株屋の王」と呼ばれたルイ・フィリップが王位につくが、
民衆はその政治に飽き足らず、ついに1848年、
2月革命を起こし、王政を廃止、第2共和制を打ち立てる
(ちなみにこの時期を舞台に貧しい人々の姿を描いたのが
かの有名な『レ・ミゼラブル』)。
しかし、そうして打ち立てられた共和制も、
同じ年の6月蜂起を境に市民(富裕層)に実権を握られ反動化、
ユーゴーを始めとした多くの共和主義者たちが
監獄行か亡命を余儀なくされていった。
ミレーもまたこうした時代の激動からは逃れられず、
ノルマンディーの海辺の寒村で生まれ育った彼は、
シェルブールやパリといった街に出て修業し、
歴史画や肖像画で
サロン(官展)への落選と入選を繰り返しながら、
極貧の生活の中で妻を亡くすなどの苦難に耐え忍ぶが、
やがてパリを革命の混乱とペストが襲い、
パリから南へ60キロほど行ったところにある
フォンテーヌブローの森のはずれ、
バルビゾン村への移住を余儀なくされる。
そこで労働する農民を主題とした絵を描き始めるが、
これが革命政府に認められて買い上げられ、
一転それなりに安定した暮らしができるようになる。
経済的に余裕のできたミレーは
相変わらずバルビゾンでの生活を続ける傍ら、
久しぶりに故郷へ帰ったり(一家は離散寸前だった)、
パリにでて知り合いの画家や
絵を買ってくれる革命政府の要人と会うなどしてるが、
1870年、今度は普仏戦争が起り、
シェルブールへ疎開している。
そして1875年、バルビゾンで死去。
以前読んだ評論家・柄谷行人さんの本に、
今日の世界的な問題の基本的な部分は
既に1848年までには用意されていたということが書かれてたが、
ミレーの生涯やその生きた時代を見ると、
まさしくその通りだと実感する。
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貧富の格差や民族意識の問題、
あるいはそうした中で自己の基盤を確立することの困難さなど、
今日国際的あるいは社会的に問題になってることの多くが、
その中に透けて見えるような気がする。
だからそれはある意味では、
近代市民社会に普遍的に存在してる物なのかもしれない。
いずれにしろミレーの描くような労働する農民たちの姿は
中世以来今日に至るまで、農業機械の進歩などはあったにせよ、
根本的なところでは変わっていないだろう。
あるいは農民たちとはまた違った暮らし方をする羊飼いたちも、
大地に根差して生きるという意味では変わりがないだろう。
僕も含め日本でミレーの絵が人気を集めるのは、
おそらくそうした生き方に共感する人が多いからだろうと思うし、
そのことが、
良くも悪くも、日本的な特徴なのかもしれないと思う。