N.フィリベール作品、

続いて『動物、動物たち』を観た。

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1991年、1965年以来閉館となっていた

フランス国立自然史博物館の改装工事が始まり、

この作品はそれにあわせて撮られたそうだ。

建物はおろか、

収蔵されていた動物のはく製たちの傷み具合も激しく、

多くの専門家たちによって修復、新調されていく様子が

カメラに収められている。


リンネとビュフォンが博物学の基礎を確立して以来、

ヨーロッパ人は様々な動植物を収集し分類してきた。

そうした博物学は19世紀に至って、

ラマルクなどによって生物学として再編成され今日に至っている。

その過程ではM.フーコーやG.ドゥルーズもとりあげた

キュヴィエとサンティレールとの論争や、

20世紀のS.J.グールドとR.ドーキンスとの論争などがあったが、

今日ではよりラマルク的ないしはダーウィン的な

生物観が定着してしまっているように思う。


ラマルクやダーウィンに共通して観られる生物観とは、

一言で言えば進化論である。

ラマルクは「獲得形質は遺伝する」という、

一見進化論とは矛盾するような説を唱えたことで知られるが、

大きく見れば初期の進化論者としてみることができると

されていて、

論敵であったキュヴィエ(天変地異説を提唱)との論争は、

その後20世紀に入って、

グールドとドーキンスなどによって変奏されたとも言える。

グールドとドーキンスの論争は、

今日の評価ではドーキンスの側に軍配が上がる傾向が強く、

iPS細胞など最近の生物学のトピックも、

そうした主流派生物学の見方に立っていることが多い。


こうした主流生物学の問題は、やはり何と言っても、

人種や民族などの優生思想に繫がりやすい、ということだろう。

すでに安楽死や出生前診断、再生医療のコスト(格差)問題など、

多くのケースでそうした生命倫理の問題が焦点となっているし、

そういう意味では学としての生物学はもはや成熟し、

課題はむしろ哲学や倫理学の領域に移ってきているとも言える。

言い換えればそれは、

社会の中で技術をどう生かすべきかということに等しい。


そうした視点から改めて18~19世紀の標本たちを見てみると、

そこには大きな問題が孕まれていたことに気付く。

抑々人間が他の生物を捕獲し剥製にするということの残酷さ、

そうした行為の根底に潜む、

理性によって自然を支配しようという考え方の暴力性が

滲み出ているような気がするし、

そうした精神の在り方が、

その後の核の歴史などにも繫がっていったことを考えれば、

極めてアクチュアルな問題に見えてくる。


もちろん、環境破壊が進み、

様々な動植物が存在の危機に瀕している今日では、

こうした考え方を、再評価はしないまでも、

重要な参照項とする必要は出てくるだろう。

人間が人為的に破壊してしまった自然環境は

もはや自然な形では絶対に元に戻らないから、

人間の責任によって

なるべく元に戻るよう制御する必要があるからだ。

その限りにおいては、

かつての博物学にもまだ見るべきものはあると思うし、

そうした在り方こそが唯一、

悲しげな顔をした標本たちへのせめてもの償いとなるのだろう。


改装にあたって、

搬出される動物たちを運ぶ器具の出す音が、

まるでその動物の出す鳴き声のように聞こえたのは、

フィリベール監督の脳裡のどこかにも、

そのような思いがあったからなのかもしれない、などと思った。


付録的に、戦間期のツール・ド・フランスの往年の名選手

R.ラペビーに密着した短篇『行け!ラペビー』も収録されていて、

こちらの方も面白かった。

77歳になっても毎日自転車に乗って歩く

スーパーおじいちゃん的な姿は、

きっと世の高齢者たちにも大きな希望を与えたに違いない

(ラペビー自身は残念ながら96年に亡くなったようだが)。