先日訃報が伝えられた木田元さんの

『ハイデガー拾い読み』を、追悼の意も込めて読んだ。

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)/新潮社
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木田さんのハイデガー関連の本を読むのは、

『ハイデガーの思想』、『反哲学史』に次いで、これで3冊目だが、

僕の哲学(史)観、殊にハイデガー観の基礎は殆ど、

木田さんに拠っているといっても過言ではない。

ハイデガーの思想 (岩波新書)/岩波書店
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反哲学史 (講談社学術文庫)/講談社
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20世紀最も重要な哲学者を一人だけ上げるとしたら、

それは間違いなくM.ハイデガーだろう。

ハイデガーはナチスを支持するなど

極めて問題のある哲学者でもあったが、

重要さという点においては、あのJ.P.サルトルでさえも、

その足元にも及ばないだろうし、

事実、「現代思想」と呼ばれるものも含めて、

20世紀後半以降の哲学・思想はほとんどみな、

ハイデガーを巡って展開されたといっても過言ではない。

それはひとえにハイデガーが、

西洋2千数百年に及ぶ哲学の歴史を覆そうとしたからに

他ならない。

 

満州で育った木田さんがハイデガーに出会ったのは、

終戦後、母方の郷里を頼って引き揚げてきた山形・鶴岡で、

農林専門学校に通いながら

ドストエフスキーやキルケゴールなどを

読み漁っていた時だったという。

文学や哲学の古典を読む中で、木田さんは、

どうしてもハイデガーの主著『存在と時間』を読まなければ

ならないような気がして、

戦後の紙不足の中、翻訳書を何とか取り寄せて挑戦したが、

全然歯が立たず、

 

これは大学の哲学科に入って、哲学書を読む専門的訓練を受けなければ読めないらしいということだけは分かり、急遽受験勉強をはじめた。ひどく切羽つまった気持になっていたのである。こうして、なんとか東北大学の哲学科に入った。(『ハイデガーの思想』)

 

敗戦後、それまで信じていた価値観はおろか、

生活圏までも瓦解し、家族で他人の家に居候する身にとって、

「ひどく切羽つまった気持」は並大抵のものではなかっただろう。

同じような境遇で哲学や思想に向かったのは

何も木田さんだけではなかっただろうが、

そうして向き合ってきたハイデガーについて、

木田さんはこうも言っている。

 

 しかしこれだけ永くつきあってきながら、私はいまだにこの哲学者に対してアンビヴァレントな気持ちをもちつづけている。この人の著書や講義録は、読めば読むほどすごいと思い、嘆賞を禁じえないのだが、この人の人柄はどうしても好きになれないのだ。この二十年ほどのあいだに、この哲学者についての評伝のたぐいもずいぶん書かれてきたが、そうしたものを読んでその人柄を知れば知るほど、私はこの人が嫌いになる。

 だからといって、この人の書いたものを読む気が萎えるかというと、そんなことはない。いまだに全集の新しい巻が出ると跳びつくようにして読んでいるし、以前読んだものも面白いものは繰りかえし読みかえしている。そして、読んでやはりすごいと思うし、面白くて仕方がない。こういう関わり方も、妙なものである。(『ハイデガー拾い読み』)

 

こうした妙な関係について、木田さん自身は、

これに続けてこう書いている

(長くなるが、日本に生まれ育った僕らが、

西洋の哲学に対する上で非常に重要な指摘だと思うので

引用する)。

 

 日本には儒教を学んできた永い伝統があり、その儒教では言行一致が立て前になっているので、こうした関わり方がいっそう妙に思えるのであろう。つまり、儒教では、ある思想家の思想に傾倒するということは、その思想家の生き方をも学び、その思想家と人格的に一体化しようと目指さねばならない、と考えられているのだ。

 私たちは、西洋の哲学を学ぶときにも、どうやらこの伝統に従おうとする傾きがある。だから、ハイデガーの伝記的事実が明らかになり、たとえば彼がかなり本気でナチスに加担したらしいとか、その時代に親しい知人たちをナチスに密告するような卑劣なふるまいをしたらしいといったことが分かってくると、すっかり困ってしまう。

 そこで、ハイデガーほどの偉大な思想家が本気でそんなことをするはずがないと、事実を曲げてまでその行動を糊塗したり弁護したりしようとする。

 一方には、ハイデガーのようにナチスに加担するような哲学者の書いたものなど一顧にも価しないと言って彼を無視しようとする人たちがいるが、これも言行一致主義の裏がえしということになろう。

 当初私も、このことで当惑しなかったわけではないが、そのうちに、西洋で〈哲学〉と呼ばれてきた知は儒教のような道徳思想とはかなり違うものではないのかと考えるようになった。そして、私自身現に、この哲学者の人柄は嫌いだが、その書いたものには強く惹きつけられているのだから、それでいったいどこが悪いと坐りなおすようになってきた。芸術家のばあい、たとえば中原中也やゴッホあたりを考えてみても、とても傍で一緒に暮らしたいとは思えないような人たちだが、それでもその作品のすばらしさは認めざるをえないであろう。哲学者にだってそういうことはありうるのではなかろうか。

 

そうしたハイデガーの「作品」を、

ではどう捉えるべきかというところで、木田さんは、

既刊全集版など一部翻訳書の訳のまずさを批判しながら、

著作よりは分かりやすい(そして読んでて楽しい)

ハイデガーの講義録を中心に、

 

プラトンとともに、なにかまったく新しいことが始まっている。あるいは、こう言い換えても同様に正当であるが、タレスからソクラテスまでのあの天才共和国と較べてみると、プラトン以来、哲学者になにか本質的なものが欠けているのである。

 

というF.ニーチェの言葉を手掛かりに、

彼の絶大な影響下にあった、

そして、緻密なアリストテレス研究者でもあったハイデガーが、

師であるプラトンの批判者としてのアリストテレスや、

あるいはパルメニデスやヘラクレイトスといった

「ソクラテス以前(フォアゾクラティカー)」の哲学者たちを

参照しながら、

西洋2千数百年に及ぶ〈哲学〉の歴史を覆すことを

目的にしていたということを説いていく。

 

そもそもソクラテス以前の哲学者たちにとって、

存在(在ること)とは、

丸山眞男が論文『歴史意識の<古層>』の中で

古代日本人の自然観として指摘していたこととも

近似するような、

「自然(自ずから然る)」、つまり自生的な自然観だったそうだ

(これは『反哲学史』などでも詳しく書かれている)。

 

プラトンが、こうした自然観をまったく変えてしまったと、

木田さん=ハイデガーは言う。

プラトンは、古代ギリシアの伝統的な自然観(存在観)に対して、

まるで芸術作品の制作をモデルにしたような「イデア」論と、

後に「本質存在/事実存在」と呼ばれることになる区別を導入し、

今目の前にある、個別具体的な「このもの(人)」を、

恰も別の世界にある「イデア(観念)」の亡霊のように扱った。

これに反駁したアリストテレスでさえも、

プラトンのこの規定から逃れ出ることができなかったところに、

西洋2千数百年の〈哲学〉=「形而上学」の誤りがあるという。

 

こうした傾向はその後のドイツ観念論、

特にヘーゲルの哲学において絶頂を迎え、

19世紀~20世紀前半の植民地主義や核技術の開発などに

直接つながっていく問題であるがゆえに、

非常に重要な問題であると思う。

また、その問題を扱う手つきにしても、

ハイデガーがこうした問題を考える上で

ナチスに接近していったことを併せ考えると、

木田さんの言う「反哲学」のやり直しとしての

20世紀後半の、

いわゆる「現代思想」と呼ばれるものも含めた哲学・思想の持つ

極めてアクチュアルで重要な意味が、

よく見えてくることになると思うし、

亡くなるまでの木田さんもまた、

そうした問題意識の上で思索や研究に打ち込んでいたことは、

ほぼ間違いないだろう。

 

いずれにせよ、

日本のハイデガー研究の第一人者としての木田さんの功績に

改めて敬意を表するとともに、

心から、ご冥福をお祈りしたいと思う。

 

木田さん、ありがとうございました。