Eテレでまた、

『日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち』の四回目

『二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~』を見た。


http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/


僕がちょうど中学の終りから高校に上がる頃まで、

NHKでは『街道をゆく』のシリーズをやっていた。

最近では故・野沢尚さんの脚本をもとにした『坂の上の雲』が

ドラマ化されていたのも記憶に新しいだろう。


司馬遼太郎という作家は、戦後の文学史を語る上で、

明らかに一つのトピックになりうる作家だろうと思う。

それだけ、戦後の日本では読まれてきた作家だろうし、

まさに「国民作家」と呼ばれるだけの作品を遺したと思う

(大部分未読でドラマなどで知るだけだが)。


その司馬が、『竜馬が行く』『坂の上の雲』など、

一連の著作をものした理由が、

「二十二歳の自分への手紙」だったという。

文化功労賞を受賞した際、記者会見の席で、

記者からの質問が出ないのを見て自ら話し出した時の言葉だ。


学徒出陣で出征した司馬は終戦前夜、

栃木県佐野市で戦車隊の少尉として訓練中、

上席の将校に

「米軍が本土に攻めてきて我が隊がそれを迎え撃つために

南下すれば、米軍の攻撃から北上して逃げてきた市民と

鉢合わせして混乱すると思われるがどうすればいいか」

と聞くと、その将校は言下に

「轢っ殺していけ」

と答えたという。

それからまもなく戦争は終わるが、22歳の司馬は、

どうして日本はこんな愚かな戦争をするようなバカな国に

なってしまったのか、

昔の日本人はそうではなかったはずだと考えたという。

「二十二歳の自分への手紙」という言葉はそこに由来する。


司馬遼太郎という作家は、終生、

昭和という時代にこだわった作家だったと思う。

晩年構想していたノモンハン事件についての小説は

ついに書かれることはなかったが、

『街道をゆく』にも、あるいは『この国のかたち』にも、

そうした主題性は共通して見えるように思う。

昭和の戦争を想う時、彼の身中は怒りに満ち、

それがもっともよく表れてるのが、

ノモンハン事件の時の参謀本部作戦課長だった

稲田正純という人物の印象について語るときの、

「ただの官僚」という言葉だろう。

これはH.アーレントが同じく「ただの官僚」として印象を語った

アドルフ・アイヒマンのことを連想させる。


司馬は最後まで、「昭和の戦争」を生み出した日本という国、

その後も縮小されながら再生産されてるようにも見える

このシステムが気がかりだったに違いない。

小学の教科書にも載った『二十一世紀に生きる君たちへ』の

次の文も、まさに司馬のそうした心の表れだったのだろう。


「やさしさ」

「おもいやり」

「いたわり」

「他人の痛みを感じること」

みな似たような言葉である。

これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。

 根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして

それを身につけねばならない。


やさしさやいたわりといった、

一見人間の感情の自然な発露と見えるものも、

それを育む環境がなければ、

自分で訓練して身につけなければならない。

21世紀も14年目を迎えた今、

ますます実感を持って感じられる言葉ではないだろうか。