教育テレビで

『日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち』3回目、

「民主主義を求めて―丸山眞男と政治学者たち―」を見た。


http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/


いわゆる「戦後民主主義」の思想を語る上で、

丸山眞男が果たした役割は大きく、その意義は揺るぎないと思う。

民主主義というものが永久に完成しない革命だとする

「永久(永続)革命論」にしても、

日本人の精神の<古層>としてある「他者感覚のなさ」にしても、

その指摘は3・11後の現在に至るまで敷衍しうるし、

極めてアクチュアルな言説だったと思う。

特に、晩年、オウム真理教について語っていたことを

今回初めて知って、

しかも、オウム(ひいては戦後社会)を、

自らが青年時代を過ごした戦前と重ね合わせていたことを知り、

驚きとともに、やはりか、という気もした。

その意味でもやはり鋭い洞察力を持った政治学者だったと思う。


ただ、その丸山をして、見落としてしまったものがあると思う。

それが、例えば60年代末からの学生運動の抱えていた

ロマン主義的心情(パトス)の問題であり、

もっと言えばそれともある意味で通底する、

戦前国家主義者たち(丸山の言葉を借りれば「超国家主義者」)の

パトスの問題だろう。

後者については、丸山門下生であり、

彼の問題意識と手法を継いだ橋川文三が考察することになるが、

丸山眞男という人は理知的であるがゆえに、

やはりどうしても、パトス的な次元を低く見てたように思うし、

そのことが、

東大紛争時の行動などにも如実に出てたんじゃないだろうかと思う

(東大を辞職する辺りから本人もそのことに気付いた節もあるが)。


丸山自身、晩年の講演で、横の繫がりの重要性を説いてる。

それは大学紛争時の丸山自身の反省から出た言葉かもしれない。

言うなれば、東大という象牙の塔、

絶対に波風の及ばないアルキメデスの点から脱出して、

自治としての「民主化」のプロセスに、

丸山自身が飛び込んだ瞬間だったのかもしれない。

その意味で、戦後思想の政治との関わりの上での悲劇は、

丸山眞男と鶴見俊輔の邂逅があまりに遅かったことであり、

3・11以後の現在はまさに、

そのことが求められてるんじゃないかと思う。