仕事などで長く障碍者に関わっていると、
否応なく、「市民」ということを意識せざるを得ない。
さっきSNSでやりとりしてて、
改めてそのことを考えざるを得なかった。

1995年に自死した哲学者G.ドゥルーズは、
「市民」という語よりも「民衆」という語を好んだという。
その背景には彼の「市民」という概念の捉え方、
位置づけが深く関わってると思うが、
20世紀最大の作家の一人J.ジョイスの言を引きながら、
ドゥルーズはこんな風に語っていた。

西洋において、マジョリティーの基準になるものは、人間―大人―男―市民というものだ。ジョイスも言っていることなんだけどね。



ここで「市民」と訳されている仏語citoyen des villeとは、
直訳すれば「都市の住人」とでも訳されるもので、
「市民」(そこに「社会」が付け加わる場合も)という考え方が、
都市部の住人たちによってより受け入れられやすいという、
仏にも日本にも共通した傾向のあることが
的確に踏まえられていると思う。

「市民(社会/運動)」はそれ自体が、位階的な構造を作り出す。
そこでは「人間」が中心に位置し、
「大人」であり「男」である存在がより優位に立つ。
女性や子どものような存在は相対的に地位の低いものとされ、
教育や「躾」が必要なものとされる。
最近話題の野次問題なんかにも通じる面があろう。

そうした19世紀的な意味での「市民」概念は、
今日ではより鳴りを潜めてきたとはいえ、
潜在的にはまだどの社会にも残ってるんじゃないかと思うし、
それが何かの拍子に、
例の野次なんかのような形で噴出するんじゃないだろうか。

こうした「市民(社会)」の潜在的な差別意識、その欺瞞性には、
長年障碍者に関わっているとよく直面する。
「人権を大事にせよ」と言うその一方で、
彼ら自身は彼らをモデルとするような鋳型を
他者に当てはめているだけだし、
社会はそのようなモデルに基づいて設計されている。
障碍者に関わって来た身からすれば、
もっとインクルージョンな社会が目指されるべきだろうと思うし、
現在の安倍政権のような政権の下では
なおさらその重要性が透けて見えてくるような気がする。

いずれにしろ僕はしばらく、
「市民」から遠く離れて考えていたいと思う。