以前から読んでいた國分功一郎さんの著作

『暇と退屈の倫理学』をようやく読み終えた。

暇と退屈の倫理学/朝日出版社
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浩瀚な書物である。

それでいて文章そのものは読みやすい。

が、それだけに時々立止ってうまく咀嚼しなければ、

読み流してしまう危険性も又同時に孕んでいるような気もする。

 

本書では、

 

わたしたちはパンだけではなく、バラも求めよう。

生きることはバラで飾られねばならない

 

という言葉で要約されうるウィリアム・モリスの思想と、

 

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

 

という、皮肉屋の哲学者ブレーズ・パスカルの言葉を端緒に、

古今東西様々な知見をもとに、

人間の感ずる「暇」と「退屈」、

そしてそれとの付き合い方について考察している。

中でも本書の後半殆どのページが

20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの退屈論について

割かれているのを見ると、

良くも悪くも、この哲学者の射程の広さというものを改めて感じる。

 

パスカルの指摘通り、

人間はもともとじっとしていられない動物である。

本書ではこのことを最近の考古学・人類学的な知見から立証し、

それへの処方箋を考えていく。

上述したハイデッガーの退屈論もその過程で叩き台に

されているのだが、

本書ではそれが持っていた「決断主義」の危険性を

いかに回避しながら「暇」や「退屈」と付き合うかということに、

19~20世紀の理論生物学者ユクスキュルの「環世界論」や

哲学者ジル・ドゥルーズ、

精神科医ジグムンド・フロイトなどの思想も参照しながら、

心を砕いている。

 

中でも哲学者アレクサンドル・コジェーヴの「スノビズム」の概念と

9・11のような現代的なテロとの関連を論じている個所では、

政治思想史家・橋川文三も指摘していた石川啄木の言葉

 

何か面白いことはないかねえという不吉な言葉

 

というフレーズとともに考えざるを得なかった。

橋川は遺著『昭和維新試論』の中でこの言葉を、

明治末期の青年層が抱いた疎外感を象徴するものとして見、

またそれが、後の「昭和維新」、

つまりは昭和初期に続発したテロ・クーデター未遂に

つながっていったと指摘していた。

昭和維新試論 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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同著の解説で若手思想史家の中島岳志さんも指摘するように、

これは決して「昔のはなし」ではなく、

まさしく現在の日本の状況にもかなり当てはまることだろう。

中島さんは次のように書いている。

 

 橋川は、なぜ朝日(朝日平吾;引用者註)のような青年の問いが、「日本人」というナショナリズムによって表現されなければならないかという問題に、結論を出すことができなかった。

 孤独を抱えざるを得ない現代人が、なぜ自己の存在論的問いをナショナリズムの中に見出そうとするのか? 普遍的人間としての問題が、なぜナショナリズムの問題へと回収されてしまうのか?

 橋川は、このことが「気にかかってならない」まま、この世を去った。

 

 橋川が積み残した課題は、二一世紀の現代日本においてこそ問われるべき問題である。格差社会が拡大する中、青年たちの「スピリチュアルな自分探し」が偏狭なナショナリズムへと傾斜していく現象は、今日の日本における最大でかつ緊急の問題である。この問題を放置すると、「昭和維新」運動に近い形の暴力やテロが起きかねない。われわれは、青年のスピリチュアリティや「自分探し」を頭ごなしに否定するのではなく、そこに存在する普遍的問いにこそ真摯なまなざしをむけ、その心性とナショナリズムの関係を解きほぐしていく必要性がある。

 

嫌韓・嫌中の「偏狭なナショナリズム」的な雰囲気が、

特に右翼的な思想の持ち主でない層にまで

浸透しつつあるように見える現在、

この指摘は非常に重要なものだろうと思うし、

『暇と退屈の倫理学』はこのような現象について一定の説明をし、

それへの処方について考えるための第一歩ともなる、

そんな本であるように思う。

 

もちろん、

単なる「暇つぶし」として読んでも全然かまわないだろうし、

むしろそうした読み方こそが、

本書の主張に、より適っているのだろうが。