理化研の小保方氏が、

一連の騒動を受けて、

早大に提出した自身の博士論文の取り下げを請求したらしい。

事実上、不正を認めたとしてもよいだろう。


このブログでも、小保方氏のこと、

それも彼女の科学者としての姿勢を評価する ということで

書いてた手前、弁明も兼ねて、

少し今回の件について考えたことを書いてみたいと思う。


原子力技術についても言えることだが、

そもそも現代科学の最先端というのは、

われわれ素人に容易にわかるものではない。

専門的に勉強してきた人間が、

蓄積された知を前提に、

まさに「知の先端」で書いたものがそう簡単にわかれば、

何も大学のような高等教育研究機関は必要ないだろう。


その意味で、先端科学の研究について、

素人が軽々に口にすることは厳に慎むべきだと思う。

ただし、

今度の原発事故に起因する諸々の出来事のように、

素人=生活者がその知の先端に関わる必要性が生じることは

無数にある。

その意味で、われわれは皆、そうした知の生成を、

専門家たちに任せきりにしてはいけないとは思う。


ただ、小保方氏を擁護するわけではないが、

論文の不正という事態は、何も今に始まったことではない。

人文系には「ソーカル事件 」があったし、

理系でも「シェーン事件 」があった。

もちろん、不正そのものはその都度、

倫理的法的観点から適切に対処する必要はあるが、

より重要な問題は、

なぜそうした不正が相次ぐのかということを

きちんと分析することじゃないかと思う。

TVやネットで見る限り、

今回そのことについて指摘・分析してる記事は

殆ど無いように思う。


19世紀の近代市民社会の誕生以降、

先端科学は常にそれとの折り合いを迫られてきた。

その最も象徴的な例は、

デュポン社の社員としてナイロンを発明した

ウォーレス・カロザースの自殺じゃないかと思うが、

とにかく先端科学の研究者たちは常に、

市民=消費社会との折り合いを迫られている。

不正という事態はそうした中で生まれて来るものだろう。

そのことを抜きにして、

また当の論文自体を批判的検討することを抜きにして、

ただ小保方氏個人を中傷するような今の風潮には、

僕は同調することはできない。


知はいつでも不正と紙一重だ。

リスクを冒すことなしに先端に行くことはできない。

ドゥルーズが書いているように、


自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える(『差異と反復』)


のだから。

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そして知は、

その基盤となる哲学が不確定なものである限り、

常に「不正」でありうると思う。

別な言い方をすれば、

知は常にある種の政治性に曝されており、

その意味で、一種の暴力性を持ってる。


小保方氏のわかりやすい「不正」は

たしかに糾弾されてしかるべきものだ。

ただし、

彼女の最初の記者会見で見られた謙虚さそのものは

純粋にそれ自体として評価されてしかるべきだと思うし、

そのことが、

彼女を「絶対悪」として描かれることから救う

唯一の道じゃないかと思う。