えんじゅです。
16世紀ネーデルラントの画家ブリューゲルの、
『バベルの塔』が結構好きです。
- ブリューゲル (アート・ライブラリー)/西村書店
- ¥2,100
- Amazon.co.jp
周知のように、旧約聖書の逸話「バベルの塔」に基づく絵ですが、
天にまで届く塔を築こうとした人間の傲慢さを諌めるために
神ヤーウェが塔に雷を落とし、塔は崩壊、
さらに人々の言語・習俗を分断することで、
二度と理解し合えることができないようにしたというこの逸話に、
中世から近世へと移行しつつあった時代に生きた画家が、
いったい何を見ようとしたのか、
見るたびに考えてしまいます。
中世はヨーロッパでは百年戦争やバラ戦争など、
戦乱と恐怖に明け暮れた時代です。
横暴な君主や領主、
それに教義を楯に権力を恣にする教会などによって、
民衆が抑圧されていた時代であると一般には考えられてると思います
(実際にはそうも言い切れない部分はあったのですが)。
「人権」という考え方は、そうした中から生まれてきました。
君主や教会が生殺与奪の権限を持つこうした社会から、
民衆が民衆自身を守るために生まれたものだったと思います。
具体的には「啓蒙思想」と呼ばれるものがそれにあたりますが、
啓蒙はフランス語ではリュミエール Lumieresといい、
この語は同時に「光」や「理性」も意味します。
偏見や迷信、無知蒙昧といった人間の「暗がり」に
光を当てることでその非合理性を明らかにし、
人間をこうした「暗がり」から解放すること、
すなわち思い込みや錯覚からの精神の自由を目指したものが
「啓蒙 Lumieres」に他ならなかったわけです。
「啓蒙 Lumieres」は、まず「知る」ことから始まります。
翻って現代を見てみると、この「知る」という営為を怠ってる人が
どれだけ多いかということに愕然とします。
「自分は頭が悪いから」とか「どうせ誰が何をやっても変わらない」
といった、
一見、生物学的社会学的に裏付けられたように見える通説(偏見)が
堂々とまかり通っていることが、
個人的にはたまらなく嫌だなと思います。
ブリューゲルの『バベルの塔』は、まずなによりも、
旧約聖書の逸話に基づき
人間の傲慢さを糾弾したものではあると思います。
しかし、それと同時に、
表面的な言語・習俗の違いを超えた何ものか、
「啓蒙 Lumieres」の可能性を描いたものとも言えないでしょうか。
「バベルの塔」の上では、塔の建設に従事する労働者たちが、
その塔の一部を住処にし、よくよく見ると洗濯物が干されていたりします。
そのことそのものが塔の建設に要する時間の長大さを感じますが、
一方で、時間や場所を越えた人間の変わらぬ営みといったものを
極めて明瞭に、視覚的に実感できると思います。
戦乱や圧政の中でも棄てられることのない普通の人々の営み。
それは僕自身、震災の際に目撃したものでもあると同時に、
以前読んだ、
ボスニア内戦のときに周囲をユーゴ軍に囲まれたサラエボで
言語・習俗の異なる人々が協調して生活していたという逸話をも
思い出させます。
権力者の野望を告発したブリューゲルの「啓蒙 Lumieres」もまた、
その先にあるもののような気がします。