えんじゅです。
先日からなぜか無性に聴きたくてたまらなかった
ベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番』(通称『月光』)を
イェネ・ヤンドーの演奏で聴いてます音譜

ベートーヴェンが当時の恋人に捧げたという曲。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)

恋は結局、当時の身分制の前にあえなく潰えてしまったようですが、
この曲の比類なき美しさはベートーヴェンと彼女の間の思いが
いかに美しく、本物であったかを示してると思います。

余談ながら僕はこの曲を聴くと、
ガス・ヴァン・サント監督が
1999年に起こったコロンバイン高校銃乱射事件をモデルに撮った
『エレファント』を想い起こしてしまいます(;^_^A

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美しくも悲しいラストシーンで使われてるのですが、
ガス・ヴァン・サントがなぜこのシーンでこの曲を使ったのか、
僕には長年の謎です。
『エレファント』というタイトルそのものが
「群盲象を評す」ということわざからきてると言われますが、
恋(「Love is blind」という言葉もありますが)も不可解な事件も、
ひとつの出来事の本質などというものを理解することは
私たちには永遠に不可能だということを暗示したのでしょうか。

『月光』には美しさとともにどこか孤独感も感じます。
それはおそらくベートーヴェン自身が感じていた孤独感、
身分制という当時の社会が成せる巨大な壁の前に、
他者とつながることができないという孤独感ではなかったでしょうか。
コロンバインのエリックとディランという二人の少年も、
周囲からのいじめや能力主義的にしか子どもを見ない大人たちなどから
ある種の疎外感を抱いていただろうことは想像に難くありません。

もちろん彼らの起こした卑劣な行為は許されるべきではありませんが、
彼らを駆り立てた動機に目を向けなければ
ああした事件は繰り返されますし、
現実にアメリカではその後も同様の事件が相次いでいます。
日本でも、1994年の大河内清輝君の自殺事件など、
いじめによる数々の記憶があるにも関わらず省みられることなく、
昨今、いじめによる自殺が相次いでいますし、
宮崎勤事件など猟奇的な事件や、
もっと大きく見れば原発の問題にも、
これと同様の構造が見られる気もします。

かつて西ドイツの大統領を勤めたリヒャルト・V・ヴァイツゼッカーは
1985年の議会演説で、

過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる

という名言を残しましたが、
この至言は政治に限らず社会全般の事柄についても言えるのではないでしょうか。

ちなみにこれ↓はイェネ・ヤンドーではなく別の方の演奏する『月光』。