えんじゅです。

仙台空港で戦時中のものと見られる

不発弾が見つかり、

仙台発着の航空便が全便欠航となったようです。


http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/15056/


上のウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると、

戦時中のものと見られる不発弾は

今でも全国で毎年16個前後見つかってるとのこと。


その中でも最も多く見つかってるのは、おそらく沖縄でしょう。

「鉄の暴風」と言われた地上戦で、

わかっているだけで実に9万4千人に上る沖縄県民が犠牲になった

と言われてるようです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6


先日の尖閣・竹島の問題もそうですが、

「戦後」は未だに終わってはいません。

南京事件や従軍慰安婦の問題、

また、台湾や朝鮮、樺太アイヌやニヴフといった北方諸民族、

パラオやポナペといった南洋出身で

日本軍に協力した人たちへの補償問題、

空襲被災者への補償問題、

そして国によって限定的にしか行われてない原爆被曝者への補償など、

問題は未だに山積しています。


終戦から11年後の1956年の経済白書は

朝鮮戦争を背景にした当時の未曾有の好景気(神武景気)の中で、

「もはや戦後ではない」という言葉を載せ、

その言葉を流行させることで

あたかも「戦後」が終わったかのような幻想を

好景気に浮かれる日本の人々に抱かせましたが、

それは奇しくも日露戦争の勝利に浮かれる人々に

かの文豪・夏目漱石が言い放ったように、

ある種の「滅び」(『三四郎』)の始まりだったのかもしれません。


青空文庫『三四郎』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html


また作家の池澤夏樹さんは、

以前このブログでも紹介した『マシアス・ギリの失脚』という小説 の中で、

ダニエル・ロペスという、ある実在したポナペ人のことを書いています。

長くなりますが引用してみましょう。


「戦争中、日本軍はずいぶんたくさんの南洋人を戦争に駆り出した。彼もその一人だった。生きていればあの人はあなた(引用者註;マシアス・ギリの事)よりも五つほど年上に当たったかな。だから、兵隊にされてニューギニアまで送られた。そして足首の骨を機銃弾で砕かれ、形ばかりの手当てを受けた後、そのままポナペに戻った。ちゃんとした治療ではなかったから後遺症に悩まされた。働けないわけだから、親戚たちの厄介者(やっかいもの)になって、戦後はずいぶん辛い日々だっただろうと思う。それでも、なんとか生き延びて、気立てのいい娘と結婚して、小さな雑貨屋を一軒持って、子供も生まれた。生活は安定した」

「よくある話だ」とマシアスは言った。(略)

「そう。旧国際連盟委任統治領、後の大日本帝国内南洋領土ではよくある話さ。だけど、このダニエル・ロペスはそのままでは終わらなかった。戦争で怪我(けが)をした日本人に、戦後の新しい民主日本政府はお金を出している。ちゃんと年金を支給している。日本政府の命令で戦争に行って、それで怪我をして、死なずに故郷に帰った。同じ体験をした者に、それが日本人であれば日本政府は金を出し、内南洋の土人には一銭も出さない。そんな馬鹿(ばか)な話はないと彼は考えた。出生を募る時にはお前たちも帝国臣民だと言ったではないか。むしろ、志願して出征することで南洋の土人も帝国臣民になれると言った。それならば戦傷を負って戻った時には帝国臣民としての扱いが待っていて当然。補償の話が何一つないというのはおかしい」

「嫌な話だな」とマシアスは低い声で言った。あの大国のそういう一面について、知らない彼ではなかった。あの国だけがそうなのか。大国というものはどこでもそんな風に勝手にふるまうものなのか。こういう時にこそ植民地や小国は大国の力を思い知らされる。

「そう、嫌な話ですよ。しかしダニエル・ロペスはそうは思わなかった。何かの手違いで、たまたまポナペからの出征兵士は書類の中で忘れられたのだと考えた。そこで、彼は、期待の気持ちから手紙を書いた。ちゃんと返事がきた。だがその返事には、戦前と戦後では政府が違うから、前の政府がしたことについて今の政府は責任を取らないと書いてあった。もちろん日本人への軍人恩給と内南洋人との扱いの違いのことなど何一つ書いてない。内と外では別の基準が適用されるというわけさ。一方的で、権柄(けんぺい)ずくの、典型的な官僚の作文。同じ文面の手紙を厚生省は毎年何百通と出しているんじゃないかな。旧植民地からの同じような請求に」

(略)

「ダニエル・ロペスはその日本政府からの手紙を読んで、これはおかしいと思った。正義派なんだね。普通ならば泣き寝入りするところだが、中には立ち上がる者もいる。自分は生きて帰ったからまだいいが、死んだ者だってたくさんいたんだ。そこで、彼は日本に行った」

「だんぱん、だったな。日本語では」

「そう。直談判(じかだんぱん)に行ったわけさ。厚生省に行って、担当者に会って、言うべきことを言った。もちろん相手は手紙に書いたのと同じことを繰り返すだけで、話はまったく進展しない。あなたと同じぐらい日本語のうまい人だったんだけど、話せばわかってもらえるかもしれないという甘い期待は速やかに打ち砕かれた。そこで彼は別の戦法を考えた。頭のいい人だったんだと思うよ。今話していてもそう思う」

(略)

「彼はすごすごと島へは帰らず、東京に残って、厚生省の前で一人でデモンストレーションをしたんだ。プラカードを作って、日本政府は自分たちに不当なことをしていると書いて、朝早くから夕方まで行ったり来たり歩き回った。みんなが彼を見た。色が黒いし、顔立ちだって日本人じゃない。それが日本語で書いたプラカードを持って厚生省の前にいる」

「元気な男だな」

「それはどうかな。本当は元気じゃなかったと思う。右足を引きずって、ゆっくり歩いていた。内心は絶望していたかもしれない。そのうち新聞記者がやってきた。彼の話を聞いた。上手な日本語で冷静に答えた。取材の姿勢は同情的で、それなりの記事も出たが、だからといって何一つ事態が変わるわけじゃない。そのうち滞在費も少なくなってきた。日本で支援してくれる人が何人かいて、それで厚生省前のデモを何日か続けたけれど、ことが解決する兆候は何一つない。まさかこのまま何十年もここでプラカードを持って暮らすわけにもいかない。おまけに日本の閣僚の一人が郷里における彼の評判について嘘八百(うそはっぴゃく)を並べるという卑劣な嫌がらせをした。彼はひとまずポナペに帰ることにした」

「ふん」とマシアスは言った。生まれた年が何年か違えば、境遇が微妙に違えば、自分はそのダニエル・ロペスであったかもしれない。(略)

「故郷に戻った彼は、その半年後に死んだ。たまたまひいた風邪から肺炎になって、しかもその時は病院に薬が足りないというよくない時期で、それやこれやで彼は死んだんだ。(後略)」


マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)/新潮社
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ここに書かれているようなことはそっくりそのまま、

今の日本社会、日本政治のあり方についても言える様な気がします。

戦争を震災や原発事故に、

ポナペ人を被災者や福島県民として読み替えれば、

そのまま通じるような気がします。


こうした戦前/戦後、あるいは震災前/後の間にある

「ねじれ」(「戦前と戦後では政府が違う」などの言い訳)と、

それを通過してきた人々に内在する「汚れ」への自覚について、

かつて評論家の加藤典洋さんは作家・大岡昇平の作品を論じながら、


 大岡は、戦後というサッカー場の最も軸のしっかりしたゴールキーパーだった。

 一九四五年八月、負け点を引き受け、長い戦後を、敗者として生きた。

 きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後までもちこたえる、ということである。

 そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい。


と書いていました。


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しかし、現実の日本社会はこの「ねじれ」を放棄することで、

結局は再びカタストロフ(破局)に直面することになってしまった――

それこそが震災による原発事故や昨今の隣国との諍いが

意味するところではないでしょうか。


戦後は、未だに終わってはいない。

私達の身体の中にはまだ大きな「ねじれ」が、「汚れ」が、

幾多の不発弾が埋まっているのです。

震災はその大きな傷跡を、僕たちの眼前に、

まざまざと拡げて見せてくれたように思います。