えんじゅです。

67回目の長崎原爆忌ですね。

TVで平和記念式典を見ていろいろ考えてましたが、

それはまた後日書こうかと思います。


それはそうとここ最近ずっと、この本を読んでました↓

フーコー (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
¥1,155
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フランスの歴史家ミシェル・フーコーの解説本。

フーコーの解説本はいくつか持ってますが、

この本は図解みたいになっていて、

バンデジネ(フランスの漫画)風?の挿絵が織り込まれてる中に

フーコー自身の書いたもの、インタビューなども豊富に引用されてて、

とても読みやすかったです(*^▽^*)


フーコーの思想を一口でざっくり紹介することは非常に難しいですが、

一貫して言えるのは「権力」や「異常性」などについて考えた

20世紀を代表する歴史家・思想家だったように思います。


そもそもフーコーは『狂気の歴史』という著書のタイトルでも

わかるように、

「異常性」を考えることから出発していました。

それはフーコー自身が同性愛者であったことと

(フーコーの生きてた時代、同性愛者への偏見や差別はまだまだ

根強くありました)、

それによって医者だった父親(フーコーの一族は歴代医者でした)に

精神科(精神分析医)に行かされたこと、

そして高等師範学校(エリート中のエリート校)時代に何度か

自殺を図ったこととも関係すると思いますが、

フーコーはこうした「異常性」の分析から、

次第に「権力(関係)」の分析へと進んでいきました。


それは「正常/異常」ということの基準自体が

ある種の権力によって規定される(例えば法)からですが、

この権力は一般に考えられるような「権力」の概念とは

かなり違っていて、

フーコー自身は次のように定義していたようです。


「無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素となるもの」


普通、「権力」というと、なんらかの上下関係、

つまり、一定のヒエラルキー(階層的な秩序構造)に沿って、

上から下へ流れるものと考えられているかと思いますが、

フーコーは、そうは考えません。

フーコーは、上下であれ、左右であれ、それら両方のものが関係する、

ひとつの関係性と捉えています。


本書では精神(科)病棟を例に挙げて説明されていますが、

精神(科)病棟では、

医師や看護師が患者の正常/異常性を決める権限を持っていて、

それによって患者を個室(保護室)に戻すかどうか、

あるいは退院させるかどうかが決められます。

フーコーはここに西欧で18世紀頃から顕著になってきた

「規律-訓練」のモデルがあらわれていると説きます。


『監獄の誕生(原題;規律と処罰)』などで

フーコーが書いてることだそうですが、

西欧では18世紀頃(啓蒙思想の頃)から

「人間」が「神」に代わるものとしてあらわれ、

そこでは「規律(法や道徳)」が「キリスト教の教え」に代わるものとされ、

個人はその「規律」を訓練する(させられる)ことで、

「正常」な社会の一員たる資格を得るとされたそうです。


こうしたプロセスを効率的に行うために、

19世紀に功利主義哲学者のジェレミー・ベンサムが考案したのが、

「パノプティコン(一望監視装置)」と呼ばれる監獄の様式で、

日本では例えば昔の網走刑務所に代表されるような、

中央に監視塔があって、その周りに円形あるいは放射状に、

各獄舎が配置されるような構造を言います。


フーコーによれば、こうした効率化は監獄だけでなく、

他にも軍隊、学校、病院、精神病棟、救貧院、工場など、

さまざまな場所で適用されていったとされます。

あらゆる場所で、こうした「規律-訓練」が行われ、

それ以前の権力様式とは違う、もっと高度の社会管理が行われると

言います(フーコーはこれを「生権力」と呼びました)。


僕も以前、精神科病棟で働いていた経験があるので、

この辺は実感としてわかるような気がするのですが、

ではそうして「規律」を訓練し、それぞれの個室

(精神的な「内面」化という作業もこの延長線上にあります)に戻し、

より「正常」な個人を作り上げるということが、

社会の全面で行われているということであれば、

僕たちはそれにどのように抵抗することが可能なのか、

後期のフーコーはこの点にぶち当たり、

数年間、著作を発表してなかったようです(講義はしてました)。

「権力」が関係性を言うものである以上、

それに対する抵抗もまた、「権力(関係)」に含まれることになり、

「抵抗」は、一般に不可能になるからです。


こうした疑問に対する答えを、フーコーはSM(!)からヒントを得て、

晩年には大きな転換を迎えることになります。

「パレーシア(真理への勇気)」や「真理のゲーム」といった概念が

それをあらわすのですが、

この「真理」というのがまたフーコー独特?の概念なので、

注意して考える必要があります(長くなるので本書を読んでください)。


こうしたさまざまな新知見を提示してきたフーコーですが、

1984年、突如としてAIDSにより亡くなります。

享年57歳。

20世紀の偉大な知としては、あまりに早すぎた死だったと思いますが、

その後、盟友であったドゥルーズなど、たくさんの論考が書かれ

今でもその思想は光を失っていないどころか、

世界(フーコーの言葉で言えば「エピステーメー(知)」)が

変わりつつある現在であるからこそ、

ますますその価値は高まりつつあるように思えます。