えんじゅです。
ジル・ドゥルーズの『創造行為について』。
1987年、FEMIS(フランス国立映像音響芸術学院)での講演を、
その2年後に放映したものの一部で、
文字に起こされたものが晩年の12年間のインタビュー・書簡等を集めた
『狂人の二つの体制 1983-1995』でも読めます(訳文は違いますが)。
狂人の二つの体制 1983-1995/河出書房新社

¥3,675
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僕が「創る」ことについて考えるときいつも立ち返る動画/文章ですが、
その結びでドゥルーズは画家パウル・クレーの
「いいですか、人民が欠けているのです」
という言葉を引きながらこう語っています。
「まだ存在していない何らかの人民に呼びかけを行わないような
芸術作品などあり得ないのです。」
と。
「来るべき民衆」とドゥルーズ研究界隈では呼ばれるのですが、
ドゥルーズは持病の呼吸器疾患を悪化させ酸素マスクが
手放せなくなった晩年、繰り返し、
「民衆が欠けている」 「民衆はこれからやってくる」
と言っていたといいます(宇野邦一さん『ドゥルーズ 流動の哲学』より)。
ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)/講談社

¥1,785
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そして時代が閉塞感に包まれていく最中の1995年11月4日、
パリの自宅アパルトマンの窓から投身自殺をしてしまいますが、
そのことはなんら悲観的に捉えることではないと僕は思っています。
ドゥルーズ自身、18世紀イギリスの哲学者ヒュームを抜粋する形で、
このように書いていたからです。
「(自殺を単純に「悪」とするような主張について;筆者註)この断言は明らかに虚偽である。人間の生命は、他の動物たちの生命が従属しているのと同じ法則に依存している。あらゆる動物は、物質と運動の一般法則に服している。塔の崩壊、毒の注入は、最も下等な昆虫と同様に人間を破壊するだろう。洪水は、その猛烈な流れとぶつかるものすべてを区別することなく運び去ってしまう。このように人間の生命が物質と運動の一般法則に依存しているとするなら、人間が自分自身の生命を自由にすることは罪なのだろうか。それは物質と運動の一般法則を擾(じょう)乱し、その働きを乱すことなのだろうか。しかし、それは理に反しているように見える。すべての存在がそれ固有の意志に委ねられており、これらの存在は可能な限り、自然の作用を変化させる全権を有している。この権限を行使することなしには、これらの存在は一瞬たりとも存続しえないだろう。人間のどの活動、どの運動も、物質の何らかの部分の秩序を刷新し、運動の一般法則の通常の進行から逸脱させる。(・・・・・・)ナイル河やドナウ河の進路を変えたとしても、その機能を私が有しているなら、それで私が犯罪者になるわけではないだろう。とすれば、数オンスの血液を、その自然な流れから逸脱させることの犯罪性とはいったいどのようなものだというのか。(『自殺について』)」
これは別に自殺を推奨した文章ではありませんし、
増してや「生きることには何の価値もない」などと
主張したものではありません。
ただ単に、「道徳」と呼ばれるものが批判の矛先を向けるのとは違って、
僕ら人間の行為の可能性として、力能のひとつとして、
「自殺」という出来事があるということを、
当たり前に書き記しただけのことだと思います。
先日も「14年連続自殺者3万人超 若年層の自殺増加」といった
報道がありましたが、
自殺そのものが周囲にもたらす悲しみ、無念さといったようなものは
別として、
すでに自殺してしまった人たち、
そのような道を選ばざるを得なかった人たちに対する「労わり」は
もっとあってしかるべきだと思いますし、
むしろそういった社会に向けて改善していくことこそが、
自殺者を減らす最も強力な手立てとなるのではないかと、
僕などは思ってしまいます。
「来るべき民衆」、欠けている人民とは、何事においても、
そういった「新しい」考え方を持った人たちでしょうし、
「創造行為」とはつまり、そういった「新しい」考え方、
「アイディア=イデア Idea」を創ることに他ならないと思います。
ジル・ドゥルーズの『創造行為について』。
1987年、FEMIS(フランス国立映像音響芸術学院)での講演を、
その2年後に放映したものの一部で、
文字に起こされたものが晩年の12年間のインタビュー・書簡等を集めた
『狂人の二つの体制 1983-1995』でも読めます(訳文は違いますが)。
狂人の二つの体制 1983-1995/河出書房新社

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その結びでドゥルーズは画家パウル・クレーの
「いいですか、人民が欠けているのです」
という言葉を引きながらこう語っています。
「まだ存在していない何らかの人民に呼びかけを行わないような
芸術作品などあり得ないのです。」
と。
「来るべき民衆」とドゥルーズ研究界隈では呼ばれるのですが、
ドゥルーズは持病の呼吸器疾患を悪化させ酸素マスクが
手放せなくなった晩年、繰り返し、
「民衆が欠けている」 「民衆はこれからやってくる」
と言っていたといいます(宇野邦一さん『ドゥルーズ 流動の哲学』より)。
ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)/講談社

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そして時代が閉塞感に包まれていく最中の1995年11月4日、
パリの自宅アパルトマンの窓から投身自殺をしてしまいますが、
そのことはなんら悲観的に捉えることではないと僕は思っています。
ドゥルーズ自身、18世紀イギリスの哲学者ヒュームを抜粋する形で、
このように書いていたからです。
「(自殺を単純に「悪」とするような主張について;筆者註)この断言は明らかに虚偽である。人間の生命は、他の動物たちの生命が従属しているのと同じ法則に依存している。あらゆる動物は、物質と運動の一般法則に服している。塔の崩壊、毒の注入は、最も下等な昆虫と同様に人間を破壊するだろう。洪水は、その猛烈な流れとぶつかるものすべてを区別することなく運び去ってしまう。このように人間の生命が物質と運動の一般法則に依存しているとするなら、人間が自分自身の生命を自由にすることは罪なのだろうか。それは物質と運動の一般法則を擾(じょう)乱し、その働きを乱すことなのだろうか。しかし、それは理に反しているように見える。すべての存在がそれ固有の意志に委ねられており、これらの存在は可能な限り、自然の作用を変化させる全権を有している。この権限を行使することなしには、これらの存在は一瞬たりとも存続しえないだろう。人間のどの活動、どの運動も、物質の何らかの部分の秩序を刷新し、運動の一般法則の通常の進行から逸脱させる。(・・・・・・)ナイル河やドナウ河の進路を変えたとしても、その機能を私が有しているなら、それで私が犯罪者になるわけではないだろう。とすれば、数オンスの血液を、その自然な流れから逸脱させることの犯罪性とはいったいどのようなものだというのか。(『自殺について』)」
これは別に自殺を推奨した文章ではありませんし、
増してや「生きることには何の価値もない」などと
主張したものではありません。
ただ単に、「道徳」と呼ばれるものが批判の矛先を向けるのとは違って、
僕ら人間の行為の可能性として、力能のひとつとして、
「自殺」という出来事があるということを、
当たり前に書き記しただけのことだと思います。
先日も「14年連続自殺者3万人超 若年層の自殺増加」といった
報道がありましたが、
自殺そのものが周囲にもたらす悲しみ、無念さといったようなものは
別として、
すでに自殺してしまった人たち、
そのような道を選ばざるを得なかった人たちに対する「労わり」は
もっとあってしかるべきだと思いますし、
むしろそういった社会に向けて改善していくことこそが、
自殺者を減らす最も強力な手立てとなるのではないかと、
僕などは思ってしまいます。
「来るべき民衆」、欠けている人民とは、何事においても、
そういった「新しい」考え方を持った人たちでしょうし、
「創造行為」とはつまり、そういった「新しい」考え方、
「アイディア=イデア Idea」を創ることに他ならないと思います。