えんじゅです。
<ことのは311>、
今日は水無田気流さんの『カミワスレ』です。
『カミワスレ』
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203040312.html?id1=2&id2=cabcadaf
作者インタビュー
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203040323.html
「事実が 信仰になり 信仰が事実になる
信仰が 数字になり 数字が信仰になる
ここでは
わたしが 信仰になり 信仰がわたしになる
かみとごみとがひろわれる 場所で
あなたが信仰となり 信仰が視界になる
事実が信仰になり信仰が事実になる
信仰せよと、事実が踊る」
本名の田中理恵子で
社会学者としても活躍する水無田さんは、
現代人がいかに技術的なものにコントロールされてるか語りながら、
こう書き付けます。
原発の安全神話をはじめとして、
昨年の大震災では、多くの「信仰」が崩壊しました。
例えば、津波安全神話。
「巨大な防潮堤、防波堤があるから、津波が来ても、この地区は安全」、
「前のチリ地震、宮城沖地震のときも大丈夫だった」などなど。
そうした神話・信仰が「事実」として浸透していたことで、
津波による犠牲者が拡大した側面はあると言われています。
心理学が教えるところによると、僕たち人間は、
あるひとつの出来事の中に、
自分の見たいものをしか見ることができない、といわれます。
「信仰」もまた、そうしたものの現れであり、
現代の信仰の多くが科学技術によって成り立っている以上、
「信仰が 数字になり 数字は信仰になる」。
そして数字は「信仰」の布教の材料として「踊る」。
そこでは数字そのものの由縁は問われることはありません。
これは震災のみならず、例えば政治についても言える事でしょう。
哲学者ジル・ドゥルーズにとって、言語の役割は「指令」でした。
従って彼にとって、言語とは常に「指令語」だったといいます。
数字もまた、世界共通の言語なわけですが、
普通の音声言語(話し言葉)や文字言語(書き言葉)に比べ、
より具体的・普遍的なだけに、
かえってその「指令」という言語の本質を露にしているように思えます。
こうした言語(指令語)と、
それが押し付けてくる技術的なコントロールに、
では詩は、どのように向き合ったらいいのか。
水無田さんは次のように言います。
「言葉で討議される以前に、なし崩しで決定されていく。
討議する、言葉にすることがはばかられる。
言葉でなく、空気を読まなくてはいけない。
その空気に切り込んでいける言葉として、詩というものは、
まだ可能性がある。まあ詩人は空気を読めないですしね(笑い)。
詩は、日常的に成り立ってしまっている言葉の機能性や指示性を
内側から破壊することができる。『内破する言葉』と私は呼んでいる。
詩は、言葉の中にある、美的な表現でありながらも、
言葉を破壊することができるんです」
こういう指摘は、ドゥルーズの言語観・文学観と重なるものがあると、
僕には思えます。
ドゥルーズは討議(議論)こそ重視はしなかったものの、
新しい「指令」としての言語を創り出していくこと、
それこそが文学の役割だと主張していたように思います。
そして既存の「事実」が崩壊し、「信仰」が揺らぎ始めた今、
それこそがまさに必要とされていることではないでしょうか。
踊り続ける「事実」と、それに基づく「信仰」。
震災前は目にすることすら少なかったこうした傾向は、
震災後、ますます顕著に「見える」ようになってきたと思います。
そうした「信仰」と「事実」にどう向き合うか、言語の問題である以上、
ひとりひとりがきちんと考える必要があると、僕は思います。